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寄生獣




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, 染谷 将太, 山崎 貴 監督, 東宝, 2014.

結構面白かったかも。

ちょっと気になったのがいくつか:
  • ヤンキーねーちゃんがいない。
  • シンイチに父ちゃんがいない。
  • シンイチの母ちゃんの雰囲気がちょっと違うかなぁ。でもやけどはある。
  • ミギーの肌の質感が、クレイモデルかなんかの感じでちょっとなぁ。
  • セットがちゃちい。日本のドラマや映画ではそれがデフォですけど。

他にも、Aさんとのエピソードは、原作とは場所を変えてあります。原作でも島田の時に生徒が、「またかよ」みたいなことを言っていました。それが原作者の気分なのかどうかは分かりませんが、この変更はあってもいいかなぁと思います。あとは、島田を倒す方法がどうなのかなぁという気がしないでもないです。ここは描けるなら原作の方がダイナミックでいいかも。

そうそう。シンイチが混ざった後、原作では髪型を変えてたように思います。その表現はそのまま再現して良いんじゃないかなと思います。あとは、原作は「目」を描き分けていたんだなぁと感じました。

でも、結構原作をなぞっています。

そういうわけで、1時間くらいした辺りで、気づくことがあります。「これ、2時間程度に収まるの?」

収まりません。探偵さんだと思いますが、チョビっと後ろ姿が見えます。ですが、後藤(三木)の能力評価あたりから先は、4月下旬の後編で、ということのようです。
 

Intersteller




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, Matthew David McConaughey, Christopher Nolan 監督, Warner Bros., Paramount Pictures, 2014.

んー。

ロボットの筐体は面白いアイディアかも。

ですが、先遣隊と主人公たちが行った恒星系、大丈夫なんですかね。ガルガンチュアと呼称されているのがあるような恒星系が安定しているのかどうか。その恒星系に惑星があったとしてもどんなもんなんだろう。

ガルガンチュアの近傍とかでは、主人公とかはワームホールを作った者に保護されていたので大丈夫だったとも考えられますけど。

で、主人公は何を送信したのでしょうか? 謎です。普通に考えると重力と量子力学についての何かなのでしょうけど、どうも最後に繋がりません。というのも、でかいコロニーを一回で打ち上げる必要などないからです。まぁ社会情勢からして一回で打ち上げざるを得ないのかもしれませんが。その場合、反重力であるとか、重力フィールド的な何かとか構造維持フィールド的な何かが必要になるだろうと思います。でも社会情勢を考えるなら、そもそもコロニーに乗ろうと思う人がどれだけいるのかが疑問です。というのも、アポロ計画での月面着陸は虚構だったと学校教育で教えている社会だからです。

また主人公が目覚めたのは、ただのコロニーなのでしょうか? コロニーにしては直径が小さいような気がします。人を収容することだけを考えれば、コロニーが複数あると考えれば構いませんが。

コロニーだとすると、大きさの他に、なぜあんな場所にあるのかという疑問も出てきます。

だとすると、移民船団なのかもしれません。でも、どこに行くのでしょうか? 主人公たちが行った恒星系は、あまり適しているとは思えません。ラストでも、コロニーがそこに行くというわけではないように思います。あるいは、主人公は先に行っておけということかもしれませんが。でも、行き先があの恒星系だとすると、やはりあの恒星系は安定しているのかという疑問が出てきます。

その他、作中で「愛」とかしょっちゅう言ってて、ちょっとげんなり。

個人的には、「人類は滅びた」という結末の方が好きかもしれません。まぁそうなちゃうと話として矛盾が出てきてしまうのですが。プランBに移行したとか、一部の人間だけ地球からの脱出を受け入れた、そういう方が面白いと思うなぁ。

まぁ物理学者が最初から監修していたとしても、ハードSFと呼べるものになるとは、あるいはよくできたハードSFと呼べるものになるとは限らないということでしょうか。

-sk/hm/wl

太陽系は狭く、宇宙は広い




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えーと、まずこの表から。

太陽から惑星などの公転軌道までの距離(公転半径。単位は天文単位: AU):
水星: 0.387
金星: 0.723
地球: 1.000
火星: 1.524
木星: 5.203
土星: 9.537
天王星: 19.189
海王星: 30.070
カイパーベルトなど: 50くらい
散乱円盤: 50以上
末端衝撃波面: 75から90
ヘリオシース: 113あたりから(形がかならずしも球ではないのでめんどくさい)
ヘリオポーズ外面: 50から160(諸説あるのと、形が球ではないのでめんどくさい)
以上は:
-太陽系
-太陽圏
-ヘリオポーズ
より。

なお、1AUは太陽-地球の距離で、149,597,870.7kmであり、8.3光分である。

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太陽系の範囲をどこまでにするかには議論もあると思いますが、いくつか見てみます。

さて、冥王星が亜惑星になってしまいましたし、そもそも冥王星の軌道は変わっていたりしました。もしかすると捕獲された惑星かもしれません。まぁそうは言っても、太陽を公転しているので、一言で除外するというのもちょっとなぁと思います。

そうすると、次に候補として出てくるのはカイパーベルトあたりかもしれません。

ですが、散乱円盤に含まれるのは、散乱円盤天体と呼ばれ、カイパーベルトから外にある「太陽系外縁天体」というのでこれも捨てるには忍びない。

となると、末端衝撃波面、ヘリオシース、ヘリオポーズが候補として残るかと思います。ヘリオポーズを採用するのが良さそうには思うのですが、値の幅位が広くてめんどうなので捨ててしまいましょう。で、実用的にどうこうという話でもないので、ここではヘリオシースのよどみの始まり付近が太陽から113AUあたりとし、太陽を中心とした半径113AUの球を太陽系の領域だとします。

さて、かなりの資源庫となりそうなのは火星と木星の間の小惑星帯もありますが、それとともに木星と土星もあるかなと思います。土星のリングや衛星はかなりの資源庫だと思いますが。で、太陽からの公転軌道の距離が9.5auです。太陽-地球間のたった9.5倍。まぁ実際に行くにはすぐさま直線距離で行けるわけでもないので9.5倍よりも長い経路になるわけですが。

ヘリオシースで採用した113AUだって、太陽-地球間のたった113倍。1AUが8.3光分なので、太陽からそこまでは937.9光分です。これは15.6光時。太陽からそこまで1日かからずに電波や光が到達するわけです。太陽を中心としてそこまでを半径とする球の領域を考えます。これを太陽系の領域(あるいは、そういう言い方はしないでしょうけど、太陽系の領空とか)と考えることにします。すると、領域の端っこから端っこまで、31.25光時。24時間と7時間と1/4時間くらいで電波や光は通り過ぎます。なんかとても実用的な数字に思えます。まぁまっすぐやると太陽に全部当たりそうでは有りますが。

そこで他の恒星系ではどうかは分かりませんが、恒星系の領域を、直径1光日から2光日のあいだのどこかに設定したとします。一応直径2光日くらいにしとえばだいたいいいのかもしれません。これはなんかの設定に使えるかも。

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現実はともかく、2光日という数字だけみると、恒星系内の探査は実現できそうに思えてきます。この時点で感覚が多少麻痺していることは自覚していますが。

では、よく引き合いに出されるケンタウルス座アルファ星Aはどれほど近いかというと、4.36光年。1光年がおよそ63,241 AUなので275,730.8AU。太陽系の領域の直径が226AU、31.25光時なので、だいたい38,126.5光時。太陽系の領域の直径の1,220.0倍。太陽系の領域の半径で考えれば、その倍。いやまぁ光時の段階で、光時という単位じゃ面倒になる距離だと思います。

半径で考えて、カイパーベルトとかの50AUくらいはなんとかなるかもと思いますが(ここも感覚が麻痺してる)、その5,514.6倍はちょっとなぁと思います。

例えばヘリオシースまでの113AU。1AUを1kmに置き換えて考えると113km。まぁ歩いても行けない距離じゃない。4.36光年は275,730.8AUなので、275,730kmに置き換えてみます。これだけでも無理っぽい気がします。ちなみに地球の半径は6,371 kmですので、円周は2πr=40,0302km。地球を6.9周くらいの換算になります。無理です。飛行機でもないと無理。頑張れば自動車でも距離だけについて言えばなんとかなるかもしれないけど。

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実際には、太陽系内の移動ですらFTLが実現しないとそうそう歩きまわることはできないと思います。

では恒星系間の場合はどうなるのでしょうか? FTLで一括りにできるような方法で大丈夫なのでしょうか?

例えば、113AUを113kmに置き換えた場合、自動車で大丈夫です。ですが、地球を6.9周するのに自動車で大丈夫でしょうか? 飛行機が必要ではないでしょうか?

同じように、太陽系内で使えるFTLとは別のFTLが必要になったりしないのでしょうか?

何かが麻痺している感じでも、これはやはり遠いと思います。

-sk/hm/wl

得をするのは誰か? ―色々なウィルスがいますね―




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えーと、こんな記事がありました。「『頭を悪くさせるウイルス』が自然界に存在し、44%の人が感染していた事が判明」。

進化あたりを合目的的に話すのはちょっとなぁと思いますが、多少そういうのもこのStoryに入ると思います〔注: 「合目的的」は、「合-目的-的」をくっつけた言葉です。「目的に合っているような感じに」というような意味かなと思います。語の最後が「的的」となっていて、少し分かりにくいかもと思い、注を書いておきます〕。

まぁ、細菌あたりは、多少なりとも環境に影響を与えるので、活動が合目的的に思える部分もあると思います。で、ウィルスですが、DNAやらRNAやらの複製機能を乗っ取って増えるわけです。もう単純に増えるだけ。

でもまぁ細菌でもウィルスでも、宿主にとってあまりに破壊的な場合、結局は自滅するか、耐性のある宿主の遺伝情報が残るとかで、なんとなく落ち着いて来るという話があります。たとえば人間と付き合いが長い奴は、極端には自滅的ではないような感じで(「長い」といっても、進化の過程の話になるので、かなりの長さのようです)。まぁそうは言ってもインフルエンザとか怖いですけど。実際にどういう歴史があるかは知りませんが、エボラなんかはあまりに自滅的すぎます。

で、記事のウィルスですが、まぁウィルスに言ってもしかたありませんが、もう本当に「誰得」かなぁと思います。もっとも、視覚情報の処理と集中力ってのは動物にとっては死活問題になりかねません。えーと、犬は嗅覚優位とか言われています。イルカはどれくらい目を使っているんでしょうね? そうは言っても、たぶん聴覚優位なのかなぁと思いますが。人間は視覚優位と言われているみたいです。なので、視覚に影響を与えるとなると(さらには集中力にも)、巡り巡って誰かが得をしているのかもしれませんが。

元記事は読んでいませんので、「7〜9点」というのがどれほどのものかは分かりません。とはいえ、まぁ分布で普通なのを-σまで引き下げるってほどじゃぁないのだろうと思います(44%が感染となると、単純にσとかを引き合いに出せるのかすら疑問ですが)。

普通から-σまで引き下げるほど影響が大きいわけではないという前提で。とはいえどれくらいのものなのかは興味がありますが。

自滅的すぎることもなく、影響もそれほどでもない。もっとも、視覚情報の処理と集中力が激減すれようならば、そのウィルス自体による宿主の破壊ではなくとも、結果としてかなり自滅的になると思います。特に有史以前とか。現代でも、たとえば自動車が突っ込んでくるのに反応できるかとか影響はあるでしょうけど。まぁそんなに激減というわけでもないのだと思います。先に「人間と付き合いが長い奴は」と書きましたが、このウィルスもそういう類のものなのかもしれません。他にもいろいろ、かすかな影響をあたえるだけという細菌やウィルスがいるのでしょう。共生とは違いますが、まぁ共存しているようなのが。

ですが、どういう仕組みで影響を与えているんですかね?

-sk/hm/wl

人間の知性の限界




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ちょとした遊びです。まぁ、限界というよりも、今までのところでの質的な上限についてです。

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長いですけど前説。

抽象的思考については、何をもってそう呼ぶのかについて議論はあるでしょうが、壁画を描いた時点で一定の抽象的思考の能力を持っていたのでしょう。幾何学模様というような話でなくとも、3次元の物体を2次元に投影し、それを3次元のものと(おそらく)認識していたのでしょうから。例えばそこから文字や数という概念に至るのに時間がかかっていたとしても(文字については実際に時間がかかったと考えられています。言語の発生はいつなのか不明ですが)、それは時間の問題だったと考えておこうと思います。このような一種の記号化が可能になったのは、壁画という証拠からみると、4万〜3万年ほど前のようです。

おそらく、根本的な質という面に限れば、記号化というmemeを手に入れた―あるいはそれを許容できる脳を手に入れた―、その時点が頂点であるのかもしれません。あとは、そのmeme自体の変化や進化なのかもしれません。

そこで、3万年前が人間の知性の上限だったと言うと、いろいろ反論が出てくるように思います。「彼らは、現在の科学技術を持っていなかった」とか。そこは問題にならないというか、生物としての人間の知性の上限ではなく、memeの変化や進化や蓄積、それと知識の蓄積であろうと思いますが。

では、もう少し受け入れられやすいと思う次の時点を探します。信仰、農耕、集会などが挙げられるかと思います。信仰の起源は分かりません。壁画を描いた頃に発生したのかもしれません。あるいはもっと前かもしれません。赤鉄鉱を使っての化粧なんかには、信仰に類するものと部族などを示すものとが混在しているらしいです。アフリカ大陸南端の遺跡からは使われた赤鉄鉱(?)なんかが発掘されています。10万年くらい昔です。

んー、あれ? 信仰に類するものや部族などを示す化粧がなされていたということは、すでに抽象化の能力を持っていたのでしょうか? だとしたら、上に書いた3万年前よりも遡りますね。なお、その時期は氷期だったらしく、ホモ・サピエンスの遺伝的多様性がかなり失われた時期らしいです。

農耕と集会については一緒にします。農耕の最初期はかなり偶発的な面もあったと思います。そこで野生種から栽培種への変化の過程をみると、どうも部族間での集会もそれと並行していたようですので。これが1万年前くらい。やぁ、結構最近に戻って来ました。なぜ農耕をここで書くものに入れているかというのは単純な話です。「いつ種を蒔いたらいいのか」ということを知らなければならないからです。天文学的知識は無くとも、1年という周期かそれに類するものは知って、あるいは分かっていないといけないからです。天体観測をしていたかもしれませんし、もしかしたら数の概念に到達していたかもしれません。なので、農耕という表現をしてはいますが、農耕そのものよりもそれらの方を少しばかり重要視しています。

まだ何か言われそうなので、もう少し最近を見てみましょう。5,000から6,000年前(あるいはそれより前)の都市国家の誕生の時期です。この時期には文字、職業、法律、(形はどうあれ)お金も現れています。お金というより交換の媒体とだけ書いておく方がいいのかもしれません。

これより最近で、上限とみなすことができそうな時期はあまり見つかりそうもありません。ですが、ここではギリシアとローマ帝国の時期を挙げておきましょう。これらは、近い分、何年前くらいという表現が使いにくくなりますが。まぁ大雑把に2,000年前くらいとしましょう。時期として一緒にしていますが、古代ギリシア文明とローマ帝国では文化としてかなり違います。古代ギリシア文明は多様性があったのに対して、ローマ帝国はあくまでローマ帝国という感じだったらしいです。ただ、2つを分けると時期の書き方が面倒になるので、ここでは一緒にしておきます。

この時期に何が変わったか。うーん、国家が大規模になったとか。「思想」や「思索」がそれなりに重要視されたとか。エネルギー消費に奴隷も含めると、いくらか現代に近づくとか。「思想」などというものをどうとらえるかにはいろいろあるかと思いますが。5,000から6,000年前のメソポタミアとかでも神話が体系化されており、その中では天体についての思索もあることはあるわけで。あるいは数学が誕生したと言ってしまった方が簡単かもしれません。でも、それ以前になかったわけはありません。天体観測は行なっていたのですから。表現の問題ですが、「抽象的な数学」が誕生した時期と言っておいた方がいいかもしれません。あぁ、あとギリシアでは民主主義も起きています。

もっと近い時期になにかなかったかと考えると、逆説的ですが中世の暗黒時代があります(そう呼ぶのも荒っぽいですけど)。この時期ヨーロッパでは、文明は退行しているわけですが、なぜ退行が起こったのかというあたりについて考えてみます(まぁ地域限定の話でもあるわけですが)。西ローマ帝国のあと、1,000年くらいの間かと思います。西暦500年付近から、1,500年あるいは1,600年あたりかなと思います(文献探索とかが1,600とかでも行なわれていたので、とりあえずそこまでを入れておきます)。西ローマ帝国は周辺地域の部族(?)による侵攻や、他の地域での火山の大噴火なんかがあったそうです。その辺りが引き金らしいですけど。まぁこの時期でも東ローマ帝国は健在だったらしいですけど。この時期でも、東ローマ帝国やイスラムででっかい聖堂が作られたりしてます。前のローマ帝国と質的に違うのかどうかは、私には分かりません。この時期の考察は私には手に負えません。とりあえず時期的には1,000年前くらいとしておきます。

ただ、問題として考えたいのが、なぜ1,000年にわたって復興されなかったのかということです。カトリックの権力とか王制の権力とかいろいろあったらしいです。あるいは東ローマ帝国でもここで特筆するようなことはなかったようです(私の検索が足りないだけだと思いますが)。なぜ1,000年にわたって革新がなかったのか。このように捉えるのは恣意的ではありますが、権力と規範の限界期と考えることはできないでしょうか。いろいろあったわけですが、権力と規範が1,000年ほどにわたってとりあえず維持されていたわけです。この時期あたりでの国家などの規模とそれに付随するものが一種の安定期、あるいは限界期を迎えていたと考えてみます。

この後にルネッサンス期が来るわけです。そこでの復興と発展は大変なものがあります。ですが、それがもたらしたのは、ある意味での混乱とも言えるのではないかと思います。まぁルネッサンスの初期あたりも年代として入れておくと、これまた一つにまとめられませんが、西暦1,500年ころとしておきます。500年前くらいですね。

それよりも最近で何が起こったかというと、産業革命を挙げておくだけで構わないのかなと思います。個人のエネルギー消費の爆発的増加は現在にも繋がっています。細かい話は置いといて、西暦1,800年ころとしておきます。

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ちょっとまとめます。

  • 10万年前: 化粧
  • 3万年前: 壁画
  • 1万年前: 農耕
  • 6,000年前: 都市国家、文字、職業、法律、お金(交換の媒体)
  • 2,000年前: 抽象的数学、哲学
  • 1,000年前: 権力と規範の限界
  • 500年前: ルネッサンス
  • 200年前: 産業革命(エネルギー消費の爆発)

この辺りから本番。

さて、人間の知性はこれらのどこかで上限を迎えていたのでしょうか。それとも今も向上し続けているのでしょうか?

ここで注意が必要なのは、現在の我々は知識の集積の上にいるということです。

「無人島に行く時に何か一つだけ持っていけるとしたら」という話がありますが、私たちは自分自身の脳を持っていくだけで、おそらく上記のどの時代に於いても変革を起こせるでしょう。仮にその変革が受け入れられなかったとしても、少なくとも変革の芽は残せると思います。ですが、その可能性は、必ずしも現在の人間が上記のどの時代の人間よりも、知性の面で優れているからとは言えないのです。あるいは少なくとも言えない可能性が残るわけです。

まぁ、解剖学的には6,000年前あたりが上限だったん可能性があるという話になっていますが。

それと、上の列挙は恣意的なものですが、上の項目の年代の1/3〜1/2で、次の項目の年代となっています。まぁ加速度が一定に近いという表現が、そこそこ良いのかもしれません。そうするとちょっとしたアイディアを思いつきます。遺伝情報に基づく脳の機能の向上が変革に追いつかなくなることはあるのか? あるとして、それはいつなのか?

では、人間の知性は向上し続けていて、かつ加速度が一定だとしましょう。その場合、人間の遺伝情報が変化するためには、つまり単純に考えて自分が生まれてから自分の子供が生まれるまでの時間が必要です(群れとしてみると、また少し違いますが)。ですが、単純に考えて1世代必要なわけです。仮に1世代を30年とします。加速度が一定だとして、変革が30年を割り込むのはいつでしょうか?

これは、あるいはこういう言い方ができるかも知れません。ある言語における単語の意味は変化し、場合によっては増えます。そして場合によっては外国語や古語、死語から語彙を持ってきます。そのような方法でやっていくと、語彙は増え、多義語が増えるかもしれません。そのような傾向が続けば、人間の脳という実行系においては言語というシステムが崩壊する可能性があるかもしれません。その崩壊はいつなのでしょうか?

言語システムは置いておくとして、ここでは1/3よりもゆるやかな1/2を、うーん、いや2/3を使いましょう。すると、200年前の産業革命以後に変革があったかもしれない時期として、133年前、89年前、59年前、39.5年前、26年前、17.6年前、12年前、7.8年前、5年前、3.5年前、2.3年前、1.5年前、1年前となります。26年前で1世代、30年を割り込んでいます。

2014  -  26は1988年になります。この時期に何が起こったでしょうか? そのためには、その次の17.6年前を見てみます。2014  -  17.6 = 1996.4。この時期、MS-Windows 95が出ています。この時期に何が起こったでしょうか? 私見ですが、インターネット利用者の拡大がその1つとして挙げられるかもしれません。では、1988年ころには? これまた私見ですが、PCの普及を迎えていたことがあげられるかもしれません。

さて、仮に1988年に既に人間の知性の向上が変革に追いつかなくなっていたとしましょう。1996年には、それはさらに顕著になっていたかもしれません。では、現在私たちの知性というシステムは変革に追いつかなくなっているでしょうか? 何となく、「そうでもないのかもしれない」と思えます。1996年ごろを見てみると、1995年にYahoo! JAPANが検索エンジンを公開しています。私たちの知性というシステムが変革に追いつかなくなっていたとしても、検索エンジンにより、そこの所を補えているのかもしれません。ですが、補えているのと、知性というシステムが追いついているのとはまったく違う現象でしょう。

では、この辺りで1世紀ほど技術の停滞が起こるのでしょうか? 中世の暗黒時代のように。どうもそうでは無いように見えます。

さて、26年前、17.6年前とならんで、59年前という数字があります。2014 — 59 = 1955年。この近辺で何があったか。私見ですが、1956年にダートマス会議が催されています。まぁ「人工知能を実現するぞー!」と言った会議です。

検索エンジンも、考え方によっては人工知能です。1995年当時も今も。今の方がよりはっきり人工知能的だと言えるかもしれません。

さて、では1988年に既に知性というシステムが変革に追いつかなくなっていたとします。そして1995年にはある意味での人工知能がそこを補えていたとします。ですが、そうであると認めるかどうかという問題があります。つまり、人間の知性というシステムはそれのみでは既に存在できず、あるいはそれの群れとしてのみでは既に存在できず、人工知能との複合体として、やっと存在できているという見方を受け入れられるかどうかです。

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人間の知性は、まだまだ変革に耐えられる余裕があるのかもしれません。

あるいは、人間の知性はまだまだ一定の加速度、あるいは速度で向上しているのかもしれません。

あるいは、人間の知性は既に、もしかしたらとっくの昔に上限を迎えているのかもしれません。

あるいは、人間の知性はまだまだ一定の加速度で向上しているのかもしれません。

あるいは、すでに人工知能との複合体という形になっているのかもしれません。もし、この場合、立場が逆になるのはいつでしょうか? 言い換えるなら、ウェアラブルなどによって行動を計算機に指示される、あるいは何らかの形で計算機が人間の行動に強く介入してくるようになるのはいつでしょうか? シンギュラリティを待つ必要は無いのかもしれません。

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まぁ、1/3とか1/2とか2/3とか、それを使って出している数字は遊びです。ですが、面白いかもしれないと思ったのでこんなのを書いてみました。どういう数字を使おうとも、毎年何かが見つかるはずです。

-sk/wl/hm

ワークライフバランスが必要なのは奴隷未満のモノ




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ワークライフバランスなんてのがあります。少し次に挙げるものの下の方でも書きましたが。

なぜ日曜日があるのでしょうか? (この書き方はちょっとおかしいですし、日曜日に限った話でもありませんが。) なぜ8時間労働とかワークライフバランスとか言われるのか?

それは奴隷を過度に疲弊、あるいは消耗品にしないためです。

奴隷に対してどうしてそういう扱いをするのかといえば、単純に昔よりえらくコストがかかるからというだけでしょう。奴隷でなくても、モダンタイムスでチャップリンが演じているような労働者でも同じです。

逆方向から見ると、ワークライフバランスとか言っている人は、自分でこう宣言していることになるのではないでしょうか。

私は奴隷です。なので守ってください。

ここから、考えなおす必要があるのではないでしょうか?

あなたが世の中に提供できるのは、それが肉体的であれ知的であれ、労力なのでしょうか? もしそうなら、まず奴隷やロボット未満であることを受け入れましょう。労働者の権利というのは、そこを認めたところから発生します。そこを認めないのであれば、労働者の権利という概念自体、そもそも発生しないでしょう。

これに対して、「人間なのだから」とか「人間らしい」という反論もあるでしょう。ですが、話は単純です。「あなた方は人間ではない。それを自身で認めてるでしょ。」

さらには「退職したら」という類のも、現状を「苦役の期間」と考えてるわけですよね? キリスト教的な人生観です。そういう考え方はどうなんだろうなと思います。

労働者の権利が発生しない社会はあるのでしょうか。まぁあるわけですけど。能力、才能を提供しあう社会です。そんな当たり前の社会とか世の中が、現状は少し遠い。その理由は簡単です。それは…

-wl/sk/hm

時間幅




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「生命と非生命のあいだ(アシモフの科学エッセイ<4>)」, アイザック・アシモフ (山高 昭 訳), 早川書房, 1978.

これに、「21 われら”中間型生物”」と「22 誰かそこにいますか?」というエッセイがあります。21の方は、シリーズ(?)1巻目にも同じようなエッセイがあったと思います。22の方にはこういう一節があります。

だが、それらの惑星のうち、どれだけが知性ある生物を宿しているのだろう?

生物は化学進化の結果として、条件さえ揃えばまず間違いなく発生すると思います。今のところ、たぶん地球型(水-蛋白)の生物が想定されていると思いますが、21のように他のものもありえるのかもしれません。どのような形態にせよ、いずれは光(特にレーザー)や電波を使うかもしれません。そうすれば、時間の制限があるため、ただ「ここに私たちはいる」という独り言を発信するだけかもしれません。ですが、受け取る側が一定の技術の段階に達すれば、それを聞くことはできるかもしれません。

いや、本当にそうでしょうか? 龍の卵という作品があります。この作品では、中性子星の上に暮らす知的生物が現れます。その生物にとっての、(なんというか)時間単位は、人間にとっては極めて短いものです。21に書かれている方は、そこまで極端な違いはないと思います。ですが感覚的な時間単位は違うかもしれません。

たとえば、人が打ち聞くモールス信号は人間が打てて、聞けるような時間単位にもとづいて用いられます。感覚的な時間単位が違う生物がいたとして、それを聞いたとして、「見つけた」と思えるでしょうか?

人間の場合、温度的に中間にあるため(と言っていいと思いますが)、計算機に制御させて様々な感覚的時間単位で信号を打てますし、聞けます。では、温度的に低かったり高かったりする場合にはどうでしょうか? あるいは、人間も、人間の感覚的時間単位をまず基本として聞こうとしているなんてことはないでしょうか? 例えば、モールス信号で相手が送ってくるわけはありませんが、例えば短点が人間の1年に、長点が人間の3年にあたるような場合、人間はそれを見つけられるのでしょうか? (少なくとも、長い観測が必要です。)

他の場所から信号が見つからない理由として、そもそもいないと考えるのが簡単です。まぁ宇宙は広いのでタイミングという面倒な問題がありますが。ですが、感覚的な時間幅という単純な問題があったりしないでしょうか? なんとなく、それでも見つけられないというのは考えにくいようには思いますが。

-hm/wl/sk

人間が生物であることをやめるのはいつか?




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とは言っても、コンピュータにアップロードすとか、そういう話ではありません。


コンピュータに関連して言えば、人工知能がいずれ到達するであろうSigularityについて考えてみます。そこにはたぶん知性があるとみなされるでしょう。

だとすれば、知性というのは人間の脳という媒体に依存するものではないのでしょう。



では、人間という存在は、生物という媒体に依存するのでしょうか?

ちょっと言い方がよくありませんね。生物という媒体において人間であっても構いません。

ですが、生物という媒体を用いていることで人間を定義できるのでしょうか?


人間が生物という媒体において定義されていないとするならば、それは他のあり方を知らないからだけではないでしょうか?

Singularityに到達した人工知能に、人格や人権が認められないとは考えにくいと思います―認められない理由があるでしょうか?

そうなった場合、では何を持って人間を定義するのでしょうか? 以前から使っている言葉ですが、ここで改めてヒトという言葉を使いましょう。

ならば、「人間」は生物を媒体とする定義としても構いません。では「ヒト」であることは何をもって定義する―あるいは認める―のでしょうか?

問題はここです。生物種としての人間と、他のあり方もあるであろうヒトとをどこで、どうやって区別するのでしょうか?

「生物種以外の『ヒト』というものを認める必要はない」という議論は不要です。計算機がSingularityに到達しうる可能性を、少なくともこの議論では認めてしまっているからです。

人間はいつヒトになるのでしょうか?

人間はヒトになりえないのでしょうか?



なりえない可能性についての根拠もあります。

「なぜ宇宙人は見つからないのか?」

それが答えです。この答えに、さらに答えるなら、ヒトに―それがどういうものであれ―なりえず、文明を発展させられなかったから、あるいは自滅したから。単純な話です。


人間はヒトになりえるのでしょうか?

-hm/wl/sk

科学って何だろ?




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「真空の海に帆をあげて(アシモフの科学エッセイ<12>)」, アイザック・アシモフ(山高 昭 訳), 早川書房, 1988.

この中で、「58 焦点を鮮明に」の最後にこういう一節があります。

    宇宙の全般について、われわれはどれだけ多くのことを学ぶだろうか―その起源、発展、予想される終末について? われわれが何を発見するかは、予想もつかないのである。

    ほんとうを言えば、それこそが胸のおどることなのだ。新しい発見の本質が予測できるものならば、どうして手間をかけて実行することがあろうか?


たまに(?)、わからないことにお金をかけることは無駄と言っているような意見に会うことがあります。

実際、この社会という永久機関―それが幻想だとしても―を回し続けること以上に重要なことがあるでしょうか? それが実現された時期および地域がありました。ヨーロッパの中世の暗黒時代、ルネッサンスの前です。その当時も当然イスラムの方で科学技術が発達したりはしていましたが。日本の江戸時代は、実はその時代のヨーロッパほどに変化が少なかったわけではないようです。

異論もあると思いますが、とりあえずその時代から話を始めます。社会の変化も、科学技術の変化も、永久機関的な社会を回す事に対しての余剰のものを使って行なわれたのでしょう。

その余剰のものとは、「予測できないことを調べる」ことでしょう(他にも芸術の方面とかありますが、そっちでも幾何とかが発達あるいは応用されてます)。

今、「予測できないことを調べる」ことをやめたとしましょう。今の生活水準を維持できるでしょうか? できるかもしれません。ですが、資源の限界が見えている現在、今の生活水準が50年維持できると考えるのであれば、おそらく極めて楽観的と言えるでしょう。おそらくは100年程度で、運が良ければ江戸時代くらいの社会、おそらくは暗黒時代に戻るでしょう。社会を支える資源がないのですから、そこまで戻ってしまうことは不可避と考えられるでしょう。

2, 3回書いておいたと思いますが、人間は火を手に入れた時からカウントダウンが始まっていることを思い出す必要があります。何度か、カウントダウンを止め、宇宙への興味も医学への興味も捨てる機会がありました。ですが、その機会を人間は放棄しました。あとは、カウントダウンを認めるしかありません。

現代社会を永久機関的に維持しようという努力は虚しいものです。それは不可能だからです。

もし、暗黒時代を避けたいのであれば、「予測できないことを調べる」ことをやめることはできません。カウントダウンが進んでいる以上、「予測できないことを調べる」ことに関しての重要さをますます知らざるを得ません。他に方法はないのですから。

現在、文科省においても社会においても研究が軽く見られている(日本だけかもしれませんが)のは仕方がありません。永久機関的社会―もちろんそれは幻想―を維持するので精一杯なのかもしれませんから。


夢野久作という作家がおりまして、江戸川乱歩らとともに日本において虚構文学を確立するのに一役買った人です。このペンネーム、地域の言葉で「ゆめのきゅうさくのごた言っとる」みたいな言われ方から取ったそうです。「夢のような馬鹿げた事を言っている」というような意味らしいです。

「予測できないことを調べる」、夢野久作になりましょう。社会の維持は、夢野久作になりたくない人に任せましょう。そして夢野久作になりたくない人は、夢野久作の邪魔をしないようにしましょう。

夢野久作になりたい人がいない社会は、あるいは夢野久作である部分を持つ人がいない社会は、あるいは夢野久作である部分を持つことを否定する社会は、おそらくカウントダウンが進んでいることを意識することも無いでしょう。それはそれで幸せな社会でしょう。

ですが、私はそういう社会には賛成できません。そういう社会は遠くない未来において、維持できないことがはっきりしているからです。誰に聞いても構いません。そういう答えが帰って来るでしょう。

-wl/sk/hm

コンピュータはいつ”I”と言うのだろうか?




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ANTHROPOMORPHISM: FROM ELIZA TO TERMINATOR 2", Abbe Don (and other panelists), CHI’ 92, pp. 67–70, ACM CHI(かな?), 1992.




先日、「ブルースクリーンに表示されるテキストのオリジナル版はスティーブ・バルマーが書いたものだった」という記事がありました。まぁ、これは誤報とのことですが。

先頭に挙げた”Anthropomorphism”の記事に、ちょっと興味をひく記述がありました。MSとは関係ないと思いますが、Ben Shneidermanが”Designing the User Interface: Strategies for Effective Human-Computer Interaction”という本で、こう述べているそうです。

anthropomorphism的なタブーは、「エラーメッセージにおいて一人称を用いてはならない」というようなものである。Ben Shneidermanは、代名詞の使用も避けるように言っている。たとえば、”To begin the lesson, press return”の方が”I will begin the lesson when you press return”よりも好ましい。

というような感じです。私は、Ben Shneidermanの本を読んだ事は多分ありません。

とは言え、結局、今の計算機が”I”を使っていないのは、当時の、そして当時からの感覚と慣習によるものでしかないのかもしれません。機能だとか性能だとかという話ではなく。

さて、そのような慣習があることは意味のあることなのでしょうか? 例えば、単純な話として、計算機が「私は」と言い出したら、人間は困惑するとか。あるいは、困惑するとしたら、それは人間が計算機との間に何か違いがあると判断しているからなのでしょうか? それとも、その困惑は、慣習がもたらしたものに過ぎないのでしょうか?

ですが、そのような慣習があるおかげで、改めて、「計算機はいつ”I”と言うのだろう?」という事柄を考える事ができます。まぁ、プログラムをそう書くか書かないかだけの話といえばそうですが。書くか書かないかをいつ、どうやって人間は判断をするのでしょうか?

Singularityに到達したらでしょうか? それとも、そこまで―それは近いのかもしれませんが―待つ必要があるのでしょうか? 仮に待つとして、Singularityに到達したと、どうやって人間が判断するのでしょうか? あるいは計算機が勝手に「到達した」と宣言するのでしょうか? それとも、単に慣習を無視して誰かが”I”などを使うだけの話なのでしょうか(もうあるのかもしれませんが)。

慣習に基づくにせよ、人間の何らかの感覚に基づくにせよ、現在、私達は計算機が”I”と言うのには(多分)慣れていません。どのような条件が揃えば、受け入れられるのでしょうか? やはりSingularityが鍵なのでしょうか? あるいは、それは単に見た目としてのエージェント(あるいはアヴァターとか)が現れれば十分に納得できるものなのでしょうか? それとも、単にエージェントが現れるだけではなく、充分に人間的―擬人化した動物だろうと―に思えるような表情、口調、身振りが必要なのでしょうか? 逆に、Singularityは問題ではなく、見た目として充分に人間的なら構わないのでしょうか?

計算機はいつ”I”と言うのでしょうか?

計算機にいつ”I”と言わせるのでしょうか?

まぁ、単に慣れの問題でしかないのかもしれません。

-wl/sk/hm

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