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Dawn of the Planet of the Apes (猿の惑星: 新世紀ライジング)




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, Andy Serkis, Matt Reeves 監督, 20th Century Fox, 2014.

前作でベクタにしたウィルスが世界規模に広がり、人類はかなり弱体化してます。

それに対して類人猿の勢力がどうなっているのかは分かりません。単純に考えると、前作で避難した類人猿とその子孫くらいしかいないのかもしれません。

感想は、良くも悪くも繋ぎという感じです。この作で終われば、むしろこの作品はない方がいいと思います。あるいは次作があるなら、それがどういうものであれ、そこに至る過程を描いているということになると思います。

というわけで、面白いともどうとも言えません。

TRANSFORMERS: Age of Extinction




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, Mark Wahlberg et. al, Michael Bay 監督, Paramount Pictures, 2014.

まぁ面白かったかなと思います。

ちょっと長いかなとも思いますが、案外長さを感じませんでした。ただ、前半(?)はじっくり描かれているのに対して、後半(?)は詰め込み過ぎのようにも感じました。この辺りは、感じ方の話かと思います。後半でガンガン盛り上がっているとも言えますので(実際、そのようにも感じます)。

前半では、悪徳会社というか、そこの悪徳社長のように描かれている人が、実は結構純真というか純粋というか、まぁ実は結構良い人だったというところの描き方も面白かったと思います。

ですが、6500万年前に何が起きたのかと、戦術核というのは、規模が違うような気がします。それとも6500万年前にはアレが多数使われてたのかも。それっぽい映像もあったような気がします。でもオプティマス・プライムの発言とはやはり矛盾するような気もします。

で、関係のない話ですが。

「猿の惑星:新世紀」のペラを持ってきました。読んでみるとこんな文言が:
荒唐無稽なSFでもファンタジーでもなく、徹底的にリアルなドラマ性を追求した映像世界は、
そういう考え方というか表現というかをそのまま否定はしたくありませんが。

"OBLIVION"だったでしょうか? 日本での宣伝において、「SFという言葉は使わない方がいい。使うと客が減る」という話があります。白水社の文庫クセジュに入っている「SF文学」では、SFと狭義のファンタジー(指輪物語やアースシーなどなど)を逃避文学(逃避文学が広義のファンタジー)としています。こまかくはともかく、「現実ではない」のが大前提です(とても現実に似ているという場合ももちろんある)。

そこで引用に戻るわけですが、逃避か現実かという対立項を持ち出すのはどんなものなんでしょう? 逃避文学にはリアリティ、あるいは「リアルなドラマ性」は存在しないというのでしょうか?

まぁ、それが客向けの言葉であることは分かります。

そしてSFだと、一時期の一部の作品を除いて、それを読むのに結構な素養が必要だったりします。で、まぁ書いたあれやこれやを考えると、日本の読者、視聴者、観客の典型例はどういうものになるのでしょうか?

X-MEN: Days of Future Past (その2)




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先に、「邦題の副題はどうなんだろ?」ということを書きました。公開から日もたちましたし、ちょっと説明を追加しておきます(ネタばれ気味なので、少し日を空けました)。

“Days of Future Past”を単純に訳すと、「過去においてこうであった未来」、あるいは「過ぎ去った未来」という感じになるかと思います。この2つの訳でも、ちょっとニュアンスが違うように感じてもらえればいいのですが。

この副題は、内容と照らし合わせても、たぶん2つの解釈が可能です。1つめの解釈は、「回避できた、あの未来」という感じかなと思います。もう1つの解釈は、そうして得た新しい未来において、分岐点(?)からウルヴァリンがエグゼビアと再会(?)した時までの「過ぎ去った未来」という感じかと思います。どっちかではなく、たぶん両方と考えたほうが面白いんじゃないかと思います。

GODZILLA




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, Aaron Taylor-Johnson, 渡辺 謙,Elizabeth Olsen, Bryan Cranston, Gareth Edwards 監督, Warner Bros. Pictures, 2014.

面白かったですけど、ちょっとモヤモヤするところもあるかなという感じです。

芹沢博士(渡辺謙)が、"We call him `ゴジラ'"と言っています。若干"him"でいいのかなぁという気がしないでもないです。ミニラを産んだ個体がいたんじゃなかったでしたっけ? それともミニラは卵かなんかで発見されたんでしたっけ? まぁどっちにしろゴジラの性別は分からないので。「わけがわからないもの」という意味では"it"でもいいような気がしますが。それだと生物だという感じが少なくなる気がしないでもない。「無標の"him"」ということかも。

あと、芹沢博士が「ゴジラは調整者(バランサーだったかな?)だ」と言っていましたが、「調整者」とはどういう意味なんでしょうね? 理解が難しいセリフです。

他の方の感想とかで、ゴジラは人間の理解の及ばないものであって、怪獣同士が戦っていても、ゴジラは人間のことなど一顧だにしないというものがあります。

それはそうかなぁと思うとともに、それだと、いわゆる本編と特撮が上手くかみ合わなくなるような気もすると思います。

最初のゴジラだと、なんとなくそう思うだけですけど、人間の理解が及ばないものに対してさえオキシジェン・デストロイヤーという形で(いや形はどうでもいいけど)対抗(?)できるようになってしまった、人間の知性というものの恐ろしさがあったように思います。

前略 ダーウィン先生




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チャールズ・ダーウィンの「生涯と書簡」という本に、こういう一節があるそうです。

人間と他のすべての感覚のある生き物が、長期にわたるゆっくりとした進歩の後、完全に絶滅する運命にあるというのは、耐え難い考えである。

地球上でも完全に絶滅するのは10億年以上未来の話だと思いますが(たぶん、太陽の寿命近く)。

人間に限ったとして、かつ人間が現在程度の文明を維持できなくなった場合に限ったとしても、その場合でもまったく同感です。

ですが、技術的な限界から、その可能性も考えに入れておかないといけない時点になっている、あるいは近づいているようです。

1970年代には明るい未来と、公害による暗い未来を見てきました。1980年代なかば以降は、暗い未来を見てきました。でも、その場合も、人間はその叡智でよりよい世の中を求める事ができるという思想が根底にはあったように思います。たとえば、公害についてですが、乗り越えたバッドエンドの1つでしょう(ひとまず国内に限定しても構いませんが)。

ダーウィン先生が生きておられた世界は蒙昧が支配していた暗い世界かもしれませんが、ダーウィン先生自身は明るい未来を見ておられたかもしれません。明晰な思考が広く行き渡るという明るい未来を。ですが、私たちはたとえば公害を乗り越えたという希望を見た後に、テロや科学に対する蒙昧、そしてエセ科学など、人間は叡智を持っていないことをも見てしまいました。特にエセ科学はダーウィン先生の時代、あるいはそれより以前から生き残っているものかもしれません。先生が思い描いておられたかもしれない明晰な思考が広く行き渡るという世界は、あるいは明晰な思考を持とうと人々が願うような世界は決して訪れない世界なのでしょう。

私たちは、「耐え難い考え」と共存し、もしかしたらその始まりを見なければならない世代かもしれません。

X-MEN: Days of Future Past




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, Hugh Jackman, Patrick Stewart, Ian McKellen, Jennifer Lawrence, James McAvoy, Michael Fassbender, Bryan Singer, 20th Century FOX, Marvel, 2014.

面白かったです。派手だし。Patrick Stewartも久しぶりに見れたし。エグゼビア教授とマグニートーも、Marvelの方だとどうかは知りませんが、実際には敵ではないという感じもあってよかったです。

ただまぁちょっと思わないところがないでもない。私は最近は基本的にタイトルの邦訳とかにはあまりものをいいませんが。今回はちょっとだけ。邦題は「X-MEN: フューチャー&パスト」となっていますが、これだと原題での副題「Days of Future Past」の意味とはまるで違ってくるかなぁという気がします。

「フューチャー&パスト」だと、「未来」と「過去」が並置されています。

原題の副題から切り抜くと「Future Past」。この説明は少しめんどくさいですが。ともかく「未来」と「過去」の並置ではありません。

観てもらえばわかると思いますが、邦題では失われている内容についての情報が、原題では盛り込まれています。

タイトルについては、GRAVITYでもちょっと思うところが実はあります。邦題は「ゼロ・グラヴィティ」でした。「ゼロ・グラヴィティ」だと宇宙の方に重きが置かれているように感じます。対して"GRAVITY"だと、重力そのもの、言い換えれば重力井戸に重きが置かれているように重います。まぁ重力井戸と感じるか、「帰還できてよかった」と感じるかの違いはあるでしょうけど。

なんにせよ、プロが練った邦題だと思うので、基本的にはあまり何か言うつもりはありません。ただ、原題の良さを失う邦題をつけてもどうなんだろうなと思うというところです。

人間は考えるのか?




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前にも同じようなことを書いたかもしれませんが。その際はご容赦ください。

さて、人間は考えているのでしょうか? 心理学や脳生理学、言語学などなどなどなどが対象にしているのは、原則として「考えている人間」です。

さて、チンパンジーの知的能力を測って、「これもできた」というような報告があります。ですが、それ、大体は「ほぼすべてのチンパンジーができた」ということとは限らない。「半数のチンパンジーが出来た」ということでもない。言ってみれば「特殊な個体において出来た」というようなものではなかろうかと思います。つまり、そのデータそのものがとんでもないバイアスがかかっているのかもしれない。

人間は自身をホモ・サピエンスとしています。「知恵のある人」というわけです。そこで「本当に?」という疑問が出てきます。ホモ・サピエンスと言い出した人達は、知的能力がかなり高い人達でしょう。自身をもってバイアスとなってしまっているということはないでしょうか?

おそらく1万年前とかから、Homo Sapience SavantとHomo Sapience Idiot (仏語が混じってるけど)に分かれ始めているのかもしれません。

脳は全員のカロリーの20%を平時でも使っているとか(20%は間違いかも。多いことには間違いありません)。狩猟採集でも渡りなどの経路、木の実などのありかなどなど、考えないと言えないことが降り掛かってくる。おまけに反射でどうこうするだけではなく、長老とかからの助言をもとに考える。強力な武器を持たず、持っているのは脳だけ。それをできるだけ使ったことでしょう。もちろん、栄養状態によって、充分にその性能を発揮できなかったということもあると思います。考えることが生き残る条件。そういう条件ではそういう人が子孫を残すのに有利だったかもしれません。

ところが、まぁ、1万年前の農耕の始まりで、原始農耕においては時期程度しか気にしなくてよくなった。その後、時期だけじゃなく天候、手入れを気にする必要は出てきましたが。

ともかく農耕により、一定のカロリーの確保が可能になり、かつ一定のカロリーを得られることにより、脳の性能を引きだすことは容易になったかもしれません。しかし、単純に言って考える必要性は減った。なぜなら農耕によって一定線は確保できるようになったから。とは言え一瞬にして脳が小規模化するわけではないので、余剰能力をつかって道具やいろいろなものを作ったり観察したりしてました。ですが、脳の働きとして高レベルのものを期待する必要はなくなった。

数千年前には文字と都市国家が現れました。実のところ文字は、文字としてどういうものを使うかは置いといて、「その言語にどういう音があるか」があるのかがある程度わかっていないと作れない。というわけで文字の発生は謎に包まれています。ヒエログリフなんかは読み方が特殊などで除外するとして(まぁ基本表音らしいですが)、漢字なんかは文字というよりwordですんで、なおさら面倒だったと思いますが。(まぁ普通の文字と漢字では使用目的も違うわけですが。)

さて、文字が発明されると記録をとれる。都市国家になると明文化された法律ができる。最近、「ぐぐればいいってもんじゃない」てなことを言われますが、まぁ似たような状況が現れたわけです(アクセスできる人は非常に限られていましたが)。

そうやって外部記憶に頼るようになった。扱う情報が格段に増えているかというと、実のところ普通は増えていません。ちょっとした手帳をどれくらいの期間で使いきりますか? 昔はどうだったかを考えてみます。個人で考え、覚え、書いておいたもののをメモしていた。これはたぶん今と量的にはともかく質的には同じくらい(今、結構多く書いている人と同じ。紙などが貴重だったという根本的な問題も関係して)。ですが、規則、法律を書き出すことにより、メモ書きする必要も、覚えとく必要もなくなっています(少なくなっています)。考える必要がない状況がここでも現れている。ここでも脳の余剰能力が生まれる。まぁ一部の事務職では余剰能力が存在しないか、使わない人が目につくかもしれません。

少なくとも二つの余剰能力がその後にどのように影響したでしょうか? どちらも余計事を考えず、「うまくいっている(ように思える)方法に従う」方がこのまれるかもしれません。すると余剰能力を使って何かをいていた人より、余剰能力を使わない人のほうが子孫を残しやすかったかもしれません。そもそも論てきに余剰能力を使っていた人は少数だったかもしれません。

そうすると、遺伝子プールには、余剰能力をもつDNAは残りにくかもしれません。なにせ不要な遺伝情報ですから。あるいはあくまでイレギュラー用として残っているのかもしれませんが。

宗教、社会制度、いずれも人間の行動規定するものです。それも普段は考えないですむように。それが人間の本質名の知れません。


その結果現れる世界は、Homo Sapience Idiotの世界です。そして、「すばらしき新世界」こそがHomo Sapience Idiotにとってのの理想郷であり、人間の叡智の一つの極限と思われるのでしょう。

TRANSCENDENCE




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, Johnny Depp, Rebecca Hall, Morgan Freeman, Wally Pfister監督, ALCON Entertainment(?), 2014.

たぶん、普通には結構面白かったのかなと思います。

「普通には」というのは、予告編を観て、ちょっと思ってたことがあったので:
  • 計算機への転写は行なわれる
  • たぶん、ナノマシンは出てくる
  • でもナノマシンまででは無理っぽい描写があるように思えた
2つめは人体の再生というか再構成っぽい場面が予告編にあったので、まぁたぶんナノマシンだろうと。

3つめとして何かが必要な気がするとは思っていまして、最初に思いついたのが、アップロードされた先こそが実は現実だったというものです。他には面白そうな設定は思い浮かびませんでした。でも、その設定は誰かがもう書いているか撮っているかしているんだろうなと思います。まず思いついたというのが、たぶんどこかで読んだか観たかしたからだと思うので。作中では、ナノマシンまでで押し通してました。個人的には、その辺りがちょっと気分として不足気味という感じです。

話を作品その物に戻しまして。作中で主人公が単語を読み上げ(?)ている場面があります。何をしていたのかな? もしかしたらセリフで言ってたかもしれませんが、聞き取れませんでした。可能性としては、1つは音声の収録。もう1つは、ある単語を思い浮かべた時の脳の活動とか状態のサンプリング。1つめだとあのような方法を取る必要はないので、たぶん2つめだと思いますが。あるいは2つめがメインで、ついでに1つめもやってたのかもしれません。

こういうアップロードというアイディアがいつからあったのかはちょっと分かりません。思い出せる範囲で古いのは、宇宙鉄人キョーダインかなと。新造人間キャシャーンは、キャシャーン本人はどうだったのか分かりませんが、スワニーはアップロードというか転写してました。あと、星新一の作品だったと思うのですが、今で言うLifelogを取っていたら、本人が死亡した時に…という作品もあります。タイトルを思い出せませんし、もしかしたら星新一の作品ではなかったかもしれません。

海外だと古いのはどういうのがあるんでしょうね? Max Headroomは転写してますが、それより前の作品でどういうのがあったか分かりません。でもまぁアップロードされたものの映像が普通に出てくる映像作品はMax Headroomが古株かもしれません。


Lifelogの壁




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まぁ前から分かっていたことですが。Lifelogは日記レベルの書き方でもいいわけですが、どうせなら何かを見たり聞いたり考えたり感じたりしたことをその場で記録したい。

これを実現する一番簡単で安くて、確実な方法は、肩にでもデジタルビデオカメラを載せ、ずーっと撮影しっぱなしにすることです。バッテリ容量の壁はありますが、外部バッテリーを接続するようにすれば1日くらいはどうにかなるでしょう。記憶メディアもどうにかなるでしょう。必要なら解像度を落とせばどうにかなるように思います。ただ、これには結構致命的な問題が1つあります。考えたことや感じたことを記録するには、おそらくメインの選択肢としては、「考えなどを声に出す」ことになります。周りから見たら、ちょっと近寄りたくない感じです。2つめの選択肢は、考えたことなどをメモ帳にでも書いて、カメラに写すこと。なんとなく二度手間ですし、いまいち格好良くありません。他の問題として、頭出しが難しいという可能性もありますが、ハンドクラップとかキーワードとか紙に印刷したなんらかのマーカーを写すことで、あとで編集や頭出しもしやすくなるでしょう。

他の方法としては、スマートフォンやタブレットで写真や動画を撮影し、音声メモもつけ、テキストも入力する方法です。でもこれ、上のカメラの場合と違って、それぞれのデータが関連づけられません。その点だけについて言えば関連付けデータをどっかにとっておけば良い話ではありますが。それにスマホやタブレットでキーボードを表示してテキストを入力するのは正直言って面倒。もちろん音声の録音や音声認識という方法もありますが、どうなんでしょという点ではビデオと同じです。関連付けとテキスト入力を合わせて、「ちょっとなぁ」と思います。

この辺りが「Lifelogの壁」かなと思います。

それに対して、別の方向も現在は見えてきています。具体名をあげますが、それに限定した話ではありません。Google GlassとヘッドセットとAirTypeの組み合わせです。ヘッドセットはGlassが持っている機能で充分かもしれませんが。Glassの方は、外部メモリ、外部CPU(?)、外部バッテリの接続が前提になるかと思います。ヘッドセットはPlantronicsのように音声コマンドが使えるということで。Glass単独で録画し続ける方法もあることはあるでしょう。Glassが外部バッテリの接続に対応すれば、ですが。Glassやヘッドセットで考えたこととかを入力するのはビデオの場合と同じく、ちょっとどうだろと思いますのでそれはとりあえず除外しておきます(結局は個人と社会(?)的な慣れの問題なのかもしれませんが)。AirTypeの方は、じつはこういう説明があります:

Imagine a keyboard that fits in the palm of your hand. One that allows you to type on any surface, or none.

(太字は私)

重要なのは最後の”or none”です。つまり、何かの表面の上でなくても構わないのかもしれません。空中で手をワニワニしても構わないのかもしれません。

昔から片手キーボードというのはいろいろあります。ですが、物理的なキーがついているので、片手キーボードをつけながら何かをするのはちょっと難しい。その点AirTypeなら、そのあたりは気にしなくて良さそうに思います。

ただ、現時点では問題というか疑問もあります。

1つめの疑問は、AirType自体、あるいはそのシステム自体が片手入力に対応するのかということ。というのも、システムが用いている技術を推測すると、両手にAirTypeをつけた上で、おそらく、「左手小指+右手差し指(or 右手中指), 左手中指, 左手中指, 右手中指, 右手中指(or 右手人差し指), 右手人差し指(or 右手中指)」(指運びは私自身のものを観察したので、人によって違うかもしれません)という系列から、”Medium”という文字列が入力されたと推測するのではなかろうかということ。こういう対応はAirTyeを両手に付けなくて片手キーボードとして用いる場合にも使える方法です。ですが、システム上、片手キーボードという使用形態が可能なのかどうか。ちなみに最近は見ませんが、t9という携帯電話での入力システムはそれに近いと言えば近い方法を使っていました。いやまぁ、単に予測入力ってだけかもしれませんが。

そしてもう1つの疑問は、そういうやり方で実現するのだとしたら、日本語入力のモデルをAirTypeが提供してくれるのか、あるいはモデルを作るツールを提供してくれるのかということです。

GlassからAirTypeまでの状況がいい方に進めば、Glassで撮影しながら、片手AirTypeで手をワニワニやりながら文字を入力できるようになります。

あるいは、Glassもなしで、ヘッドセットとAirTypeで済んでしまうかもしれません。ヘッドセットにカメラはついているとしても、画像の提示も割り切って無くしてしまう可能性もあるかもしれません。

誰か作りませんか?

エイリアシング




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計算機関係だと、フォントのアンチエイリアシングなんて話がありますが。それとは別物の話。アルファベットのフォントの設計の図なんか、実は計算機が現れるより前の大昔にも同じような書き方をして説明してたりします。むしろ逆に、そういう伝統の上にフォントの記述方法が定められたのかもしれませんが。

自動車のCMとか、映画の場面とかで、車輪が回り始めるあたりは回っている方向に映るものの、ある所で逆に回転しているように映ったりします。これ、動画を撮る/写す周波数が追いつかなくなり、エイリアシングが起きているからです。というか、そういうのをエイリアシングと呼びます。

同じようなことが音声でも起こります。最近は少なくなったかなと思いますが、YouTubeでなんか変なキンキンした音が聞こえることがあります。これ、エイリアシングが起きているからです。

信号をサンプリングするには、サンプリングする周波数の2倍のサンプリング周波数が必要だと言われます。この2倍のサンプリング周波数をナイキスト周波数と呼びます。ここで、サンプリングしたい周波数の2倍のサンプリング周波数でサンプリングすればOKと思われることがあります。これ、勘違いです。

信号の周波数は置いといて、0radから2πradでのsinでも考えてみましょう。信号としては0radから2πradで1周期、周波数はx Hzとしましょう。その2倍のサンプリング周波数というのは、例えば0radとπradの時にサンプリングをするわけです。x Hzの信号に大して、2x回のサンプリングをしています。周期としては半分、周波数としては2倍になります。で、(1/2)π radと、(3/2)π radでサンプリングすれば、sin波そのものは復元できませんが、それなりに近いものを復元できます。ですが、2倍のサンプリング周波数と言っても、0 radとπ radでサンプリングしたら、0の並びしかサンプリングできません。ナイキスト周波数は、「運が良ければ、近いものを復元できる」あるいは、「それくらいないとどうあがこうと復元のしようがない」という条件です。

で、まぁこの辺りが問題になります。動画とかで低周波数の信号にエンコードするとき、そのエンコードが対応しているものを超えた周波数が含まれているとエイリアシングが起こり、キンキンいうようなおかしな音声が入ることになります。 どうしたらいいかというと、いまどきの編集ソフトは結構自動でやってくれているんじゃないかと思ったりもしますが、適切なローパスフィルタを一回とおしておけばエイリアシングは防げます。

ところで、「ナイキスト周波数でサンプリングしても復元できない」と書きました。ではどうするかというと、「その数倍のサンプリング周波数は最低限必要」ということになります。

えー、CDのサンプリング周波数は44.1kHz。人間の可聴域は20Hz〜20kHz。まぁ上の方は、成人するあたりからガンガン下がっていきますが。子供のころ、親が庭仕事するときに使っていたモスキート音をだす機械がありまして、「うるせぇ」と思ったものですが、今はもうさっぱりです。それはともかく、理屈としては、CDは人間の可聴域をカバーする規格になっていません。カバーする必要もないとも言えますが。それでもより高周波を復元する研究なんかもあります。

動画とか音楽とかを自由に配信できる世の中になったので、いまさらながらちょっと気になったので。
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