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映像に関してのUIあるいはデヴァイス




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人 間の網膜には錐体というRGBに対応する視覚細胞と、明暗に対応する桿体細胞があります。視野の中心部には錐体細胞が馬鹿げた密度で配置されています。そ の周辺では錐体細胞は減り、桿体細胞がそれなりに多く配置されています。で、何を言いたいかというと、実のところ人間が「自分の目は解像度高い」と思って いるのは間違いだとことです。それが言えるのは視野の中心部のみ。周りはボケボケにしか写っていません。

では、自分の視野についてどうして「高解像度」と思っているのかというと、おそらく理由は2つあります:

  • 目(視野なり視線なり)を動かして(目のサッカード運動(?)というらしいです)、その結果得られたものを合成(?)している
  • その上で、「高解像度」というのはただの勘違い(周囲はこうなってる気がするというラベルとかタグとかが貼り付けられてる感じかも)

なので、普段は自分の視覚の特性に気がつかない。

では、これを逆手に取ったUIは作れないだろうか。そう考えると、実は「今、編集している部分の数行だけ大きく表示して、その前後は小さく表示する」というエディタが昔にはあったりします。

サッカード運動の最中に提示している情報を切り替えても、(当然ものによりますが)気づかれないとか(切り替わっていることを知覚してはいるが、情報の洪水に対してそれを無視する戦略をとっているらしい)。文字列とか本とかを読んでいると、気づきにくいらしいです。

そうすると、上のエディタの例だけではなく、google glassあたりにおいて、目が動くのを検知して、高解像度の部分を変えたり、提示情報を変えたりすることで、表示領域を有効利用できるんじゃないかという気がします。

ちょっと処理が面倒になると思いますが、小さいカードUIよりは、実質的に多少なりとも広い表示領域を提供できるようになるような気がします。余計な計算が入ることになるので、そんなことはやらないというのが結局よろしいのかもしれませんが。

ロンリのちから―逆さまのロンリ―




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逆、裏、対偶とやっていくんでしょうかね?

最後のアリスの小ネタ劇場にて、アリスが言っていました:

私は思ったことを言いたいんじゃなくて、言ったことを思ったの

あー、これ、因果関係として前半は正しく感じ、後半はおかしいと思われるかもしれません。

ですが、神経生理学(や神経心理学)や、それ以外にも普通に言語生成だと「むしろ後半じゃね?」という可能性が指摘されています。

何をどう言うかのプランを立てることがないわけではないでしょう。ですが、少なくとも日常におけるほとんどの発話や会話においてプランを立てることを支配する管理者はいません。

デ カルト的な心身二元論によると、脳内の松果体を通じて肉体と魂が繋がっているとされていました。動物に松果体があるのかは知りませんが、人間には魂がある が動物にはないとも言っていました。まぁそれだけ「考える」ってのは人間の特権的な行為(?)であり、また魂を想定しなければならないほど「考えるってな によ」という疑問は答えが分からないということではありますが。なおこの魂の有無は西洋の伝統的な動物感でもあります。動物には魂はない。神が人間に与え たもうた生物機械である。ゆえにどう扱おうが人間の勝手という考えが根底に今も残っています。某グリーンな過激団体などは、むしろその反動でしょう。動物 との付き合い方や距離の取り方が不器用なのでしょう。

デカルトの言う魂は、「カルテジアン劇場の観客」、「脳の中 の小人」とも言えます。これは人間の認識に関する能力を全てそこに押し込めます。そうすると無限後退が始まるのであまりうれしくない想定です。ですが分か り易い喩えではあります。あまりに分かり易すぎて危険なほどです。なぜなら、そんな小人や特権的な脳の部位は無いので。(なお、「ホムンクルス」という言 葉が小人と同じような意味で使われる場合もないではありませんが、通常は特定機能を遂行する単位程度の意味です。「エージェント」という言葉も使われます が、同じ意味と思ってもらって構いません。前頭葉が特権的部位ではないかという話もありますが、それはある意味都市伝説です。前頭葉が全てを監督してなど いません。)

というわけで、「ナンセンスを意図したものが、ナンセンスになっていない」という事例になってしまっています。

超能力とか魔法とか




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サイエンスZERO(再放送だったのかな?)で超能力っぽいものをやってた。

こういうのの研究は、そのものを対象にする研究と、そういうものがどうしてあると思われているのかという研究がある。後者の場合、実際にそれがあるかどうかはどうでもいい。あると思われていること、あるいは思われていたことあたりが問題となる。

例えばの話、魔術とか、陰陽道とか、そういうのがどういうことから発生したのかとか、どういう感じで体系化され、おまけに現実に対して影響を与えうるものとしてシステム化されたのか。ここのところが実に興味深い。おまけに、実はそこのところを分析する手法も現代は手に入れている。

とは言え、これは膨大な歴史的資料を調べて、現在もどうなのかというのも調べないといけない。誰かがやっているとは思うけど、かなり大変そう。

で、これに限らないけど、実際にそれがあるかどうかはどうでもいいという研究はいろいろと立てられる。ただ、普通の周囲の人にそこの違いが分かるかどうかは別問題。実際にあるかどうかは別問題で、そういうものがあると思われていることを問題にしているという説明をするのが簡単なんだけど、そういう説明の仕方だと「そういうものがあると思われているってのは、それがあるという前提なんだよね?」と勘違いされることもある。そこの違いは決定的な違いなんだけど、その違いが分からないという場合が意外にある。

案外いろいろと説明しようとすると面倒くさい話だったりする。

しばらく前の地球ドラマチックでドラゴンを扱った回があった。それの終わりの方で、「確かにドラゴンを退治したのでしょう。そのドラゴンが何であったのかは別の問題です」みたいな、研究者の発言があったのですが、そこでそういう問題の区切り方が分からないという話があったので。それも同じです。

Lifelogというか尖った未来




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この記事で紹介しているMovesがどうのこうのという話ではないということをとりあえずまず書いておきます。


ここのところのウェアラブル機器とかスマートウォッチとかで言われているライフログって、ライフログって言い出した人の考えてたものからズレてる気がします。とりあえず言うなら、「ヴァイタルログ」という呼び方の方が良いような気がします。


ラ イフログのライフが「生命」とか「生きてる事」とかの意味なら、最近の使われ方でも構わないと思います。そういう意味も含んでいたのは当然ですが、どっち かというと「人生」という意味あいの方が強かったように思います。「人生の記録」が、脈拍や居場所の記録で良い、というか構わないのでしょうか? 何をしたか、何を感じたか、何を考えたか、そっちは置き去りで構わないのでしょうか? あるいは、その辺りはエディタとか、見たものはムービーやカメラ、聞いたものはレコーダで構わないということでしょうか? それらを統合しなくて構わないのでしょうか? 統合しましょうよ。


「こうあるべき」という考え方は好きではありません。なのでそういう言い方はしたくありません。


ただ、ライフログに限ったことではありませんが、20数年前から15年くらい前の間に、尖った研究者や製品、フィクションを通して、当時から見て未来を、そ れなりに今に近い世界を(もっと未来も)、見てしまっているという感じが強いのです。理念も込みで。刷り込みに近いかもしれません。


「理念も込みで」ということの影響がやはり強いのかもしれません。いくつか今ある製品を見て、「本当にそれはあれの後継者なのか?」と思う物も、まぁ実際にあ ります。世の中では「革新的」と言われている物の中にも、「20年前と何が違うの?」と思う物も、まぁ実際にあります。


例 えば、コンピュータ(タブレットも込みで)。こんなにアプリケーションに縛られた未来など、20年前には見ていません。これは当然使い方次第での話です。 ですが、今はもっとアプリケーションに介入できたはずです。例えば教育環境へのICTの導入(特に小中高)。20年前か15年前に見た未来のままじゃない かと思います。例えばデジタル教科書。アラン・ケイが言った(研究も続けられています)、Dynabookはそんなに不自由なものだったのか? どれもこれも誰かが言っていた理念をどこかに置き忘れて来ているという印象をどうしても拭えないのです。

これは私 の世代における呪いのようなものかもしれません。70年代には無闇矢鱈に明るい未来を見せられ、また同時に公害による暗い未来も見せられ、80年代以降は On The Edgeな未来を見て、そしてまた80年代以降は尖った理念を見て来ました。公害による暗い未来やOn The Edgeな未来を見ているとは言え、明るいとか理念とか、そもそもOn The Edgeな未来ですら、結局尖った未来を見続けて来ているのです。そりゃ、今はもっと尖っていたはずだと思ってしまいます。


もちろん、尖り続けている方々もいますし、尖り続けている理念もあります。ですが今の人達は、その尖ったものをどれほど見ているのでしょうか?

特殊技能




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音声の周波数分析をした結果を表示する形式でスペクトログラムというものがあります。まずはこちらを御覧ください。とくにページの上の方のもの。 

私が師事した先生の一人はこういうのを見て、なんと言っているのを読み取れたとのこと。私もこれくらいだと「あいうえお」だなと読めます。

子音もいくつも 存在します。子音については、私は、「この種類の子音だと思う」くらいにしか読めません。

なんでこんなのを読める人がいるのか? 話は単純です。大昔はマイクから音声をある機械に入力して、その機械でスペクトログラムを紙に印刷というか、たぶん書いて出力してました(もしかしたら感熱紙なのかも)。なので、その紙に書かれた周波数の特徴を読めないと話にならない。すると当然読めるようになる。

私も少しばかり読めるわけですが、私はそういう機械は使ったことありません。使われてた時代が違うので。ですが、結構長い時間、音声の波形とスペクトログラムを計算機のディスプレイに表示させて眺めながら作業をしたことがあるので、「なんとなくこの種類かな」くらいには読めるようになってしまっています。 実のところ音声波形でも、すこしだけ見当がつく場合があります。

 これがなんの役に立つかというと、まぁほとんどなんの役にも立たない。無駄技能です。

でもこういうの技能を残した方がいいのかなぁと思います。

==== BEGIN 追記(2014-May-1)
スペクトログラムを紙に出力について:
その場合でも、テープや文字として、なんと言ったのかは当然残っています。ただし、言ったこととスペクトログラムとの同期を取る方法は、スペクトログラムを読むしか方法がなかったというわけです。
==== END

2001: A Space Odyssey




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2001年宇宙の旅に描かれて/書かれていたかは忘れましたが。他の作品だったかもしれません。

2001年宇宙の旅だと、月は人間が宇宙に乗り出したことをどっかに知らせるための場所でした。

で、別の役割として、人間が宇宙に乗り出すための気を引くための小道具という設定もどっかであったような気がします。

こんなふうに考えると面白いですよね。
  • 地球がハビタブル・ゾーンにあるのでジャイアント・インパクトを計算して起こして月を作った
  • 地球と月は惑星と衛星というより連星に近いのでおかしな重力波を出していて、場所のマーカになってる
  • 月を見上げて、宇宙に乗り出す第一歩の目標になる
  • 月についたらモノリスを掘り出して、それによってなんかの信号がどっかに飛んで行く
  • 信号を受信してどっかから「元気だった?」とか言って宇宙人がやって来る

まぁモノリスは掘り出してないっぽいですし、月に行ってから50年弱過ぎているのでそういうこともないのか。まだちょっと時間がかかるのか。

現実はともかく、こういうの考えると面白いです。

シンギュラリティ(特異点)




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シンギュラリティというのは、人間と同等の知的能力を持つ人工知能、あるいはそういう人工知能が現れた時点を言います(まぁとりあえず)。これが話題になるようになったのは「機械との競争」からかなぁという気がします。ついでにどうも恐怖、あるいは脅威という感覚も付随しているように思います。それに関連して少し、フィクションを例に考えてみます。

映画の"I, ROBOT"では、VIKIが人間を制圧しようとします(アシモフのI, ROBOTとか聖者の行進では、完成されたロボットがこんなにたくさん出てくる作品は無かった気がする)。 作中で開発者の博士が「革命だよ」と言っているのでなおさらその印象が強められているように思います。

後期ファウンデーション・シリーズではR. ダニール・オリヴォーが、人類の守護者(というより黒幕っぽいかも)のような感じになっていたりします。活動する集団はあるものの、自身は表にあまり出なかったり。さらには時間にまで介入したことを匂わせたり。 

VIKIとダニールは、どっちが質が悪いかはともかく、まるで反対のことをやっているようにも思えます。ですが、実のところ両者はロボット三原則に対する第0条を発見(発明?)し、それに則って行動しています。第0条というのは、「個人よりも種の保護を優先する」というようなものです。 

マトリックスでは、人間は電池だという表現がされています。人間を電池にするのは、どうやっているのかとか、効率が悪そうとは思いますが。 とはいえ人間の体は維持していますし、意識も大体の所自由にしている。経緯ややり方はともかくとして、人間を保護していると言えないこともない。

オルタード・カーボンは、意識(?)をチップに転写できたりします。機能上シンギュラリティに達していてもいいように思いますが、そうなっていない。チップ上でも意識があるという設定があっても良さそうですが。技術的課題なのか何なのか。とりあえず共存という感じかなと思います。


Max Headroomは、共存ですね。Network 23のメインフレームになんだかんだ言っても縛られてるし、A-7という人工知能が出てきたもののMaxは主人公を守る行動をしてますし。結局A-7を除いて単独だったこととか、人間的だったということかもしれません。
 

ターミネーターは戦争中でした。人間を保護しようとかは考えていないかもしれません。希少種になればそこそこ保護するかもしれませんが。 

未来の二つの顔だと、コンピュータに学習させるためのトイワールドがあります。それとは逆になりますが、人間の意識を転写してコンピュータ内で生きているように思わせるというのもあるかもしれません。ただこの場合、なぜそんなことをするのがの理由がさっぱり思いつきません。転写しているわけですから、体を持った個人であれ種であれ、人間を保護する目的というわけでもないでしょう。思考の冗長化というのはありえないわけではないかもしれません。ですが、それも結局個人や人間を保護するわけじゃない。体がないのですから。あるいは人間の発案によるのか、人工知能の発案によるのかは分かりませんが、恒星間航行の間、体は冬眠させておくが意識は起こしておきたいというようなことはあるかもしれません。

ニュートンズ・ウェイクだと、シンギュラリティに到達した後にすこし人間といろいろありましたが、結局どこかへ行ってしまっています。

あ、書いていませんでしたが、シンギュラリティに達したと言う時には、人工知能の自発性とか自律性というのが必須だと思います。それがなければ、命令待ちになるだけだと思いますので。

とりあえずこれくらいの所で、シンギュラリティに達した人工知能が人間に対してどういう行動をとるかをまとめていたいと思います。

  • 個人を(強く)保護する
  • 人間という種を(強く)保護する
  • 共存
  • 敵対する
  • 道具として使う
  • 無関心

こんなところかなと思います。実際にどうなるかは、開発過程も含めて現実の流れを見ないと分かりませんが。どうなるか見てみたいですね。

で、ここまでが前振り。

こうやって考えてくると、どうにも疑問が湧いてきます。というのは、シンギュラリティに達したという時の知的能力の基準はどこに置くのでしょうか? 天才が基準なのでしょうか(天才と呼ばれるための基準は知りませんが)? それとも普通の人が基準なのでしょうか? 「機械との競争」あたりを見ると、普通の人が基準なのかなと思いますが。まぁシンギュラリティよりも先に考えることがあるかなぁと感じているわけです。

普通の人が基準だとして、 シンギュラリティに達した人工知能にどうして恐怖を感じたり脅威と感じたりするのでしょうか? 仕事が奪われるから? それはまぁ脅威ですけど。本当にそこが問題なのでしょうか? シンギュラリティに達したら、人間がやっている仕事なんかに興味を持ちますかね? 「機械との競争」的に脅威となるのは、シンギュラリティに到達する前だと思います。その場合だって、ロボットに働かせてベーシック・インカムみたいにお金が手に入れば困らないわけで、脅威とは違うような気がします(大雑把な話ですが)。

あるいは自分たちが創ったものに追い抜かれる、あるいは置いてけぼりを食うのが怖いのでしょうか? いや、天才も普通の人も含めて、殆どの人はシンギュラリティに至る過程やらそのものに直接関与してないでしょ。個人が関与したかどうかではなく、種としての話なら、単にそういう事が起こるというだけのことでしょう。恐怖とか脅威を感じる理由にはならない気がします。関与だとか生み出したとかいう話ではないのでしょう。

そうすると、知的であるという自負が脅かされる事そのものについての恐怖、脅威なんじゃなかろうかと思います。

さて、普通の人と天才の人の間にも、たぶん知的程度の差があると思います。この辺りは分からないところでは有りますが(天才とか普通とかどうでもいいと思っているので)、普通の人は天才を見て、知的であるということの自負が脅かされたりしないのでしょうか? 「人間という同類だからそこのところは気にしない」のか、「天才が上手いことを考えてくれるのでそれに乗っかっていればいい」のか、「違うけどどうしようもない」なのか。いろいろ有るとは思いますが、人工知能のシンギュラリティの話との対比で考えると、「天才だって人間じゃん」というところで落ち着くのかなと思います。

で、「天才だって人間じゃん」に落ち着かせてしまっていいのかなというところが気になります。生物種の定義は難しいところがありますが、極端な言い方ですが、天才はすでにホモ・サピエンスではないと宣言されたら普通の人はどう感じるのでしょうか? 「あなた達より知的能力が優れた生物種が地球上に居る」と言われるわけです。おまけに「見た目では区別がつかない」し、「彼らがあなた達についてどう考えているかも分からない」と言われるわけです。あるいは、「生物種としての分離を進めよう」なんて話も出てこないとも限らない(H. G. ウェルズの「タイムマシン」とかはその結果かもしれません)。私は結構そのあたりはどうでもいいと思っているので、単純に他の人がどう反応するのか見てみたい。

しばらく前に、Eテレの地球ドラマチック(だったと思う)で、「動物はどこまで賢いのか」というようなものを流していました。司会者が、「人間より賢い生物(宇宙人)が現れたとして、人間は知的に劣るからという理由でコミュニケーションを取るのを諦めるでしょうか?」(正確なところは忘れました)というような言葉で締めくくっていました。それはかなり楽観的かなと思います。私としては、「諦めてどっかに行く」に一票入れときます。広い宇宙を行き来しなければならないのですから、一つの所に永く関わってるなんて時間の無駄でしょうから。

異星人の手がかりがなぜみつからないのか?




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SFに限らず、SETIでも、大前提として「生物は知性を持つように進化する」というものを持っているのかもしれません。最近のSFでは、他星系に出かけたとしても、あくまで人間が植民し、人間の世界の一部になるものが多いように思います。昔のSFだったら異星人がいるのはあたりまえでした。

さて、あちこちに水が存在することは確認されています。水があれば、地球型(に近い)の生命がある可能性は検討に値するかもしれません。あるいは地球型とは違う異星人もあり得るのであれば、宇宙人の総数(種類の)はもっと増えるはずです。ですが、手がかりが見つからない。

それを考えると、宇宙は生命で満ち溢れているかもしれないが、知性では満ち溢れてはいないということなのかもしれない。

恐竜の類は1億年とか繁栄したが、文明を作ったという痕跡はない。人間は100万年とかその辺りで現在に辿り着いているのにだ。1億年と比べるなら、1000万年で辿り着いたと言っても構わないだろう。ということは、「生物は知性を持つように進化する」という大前提が、誤っているのかもしれない。

今の人類の文明をもたらしたものが何かといえば、それは言葉だと思う。言葉により、考えを記録し、蓄積し、伝達することができる。特に文字だ。もちろん現在でも言葉は持つが文字は持たないという民族・部族も居る。だが、全体として数千年前から文字を使っている。

文字を作るのが難しいとは思えないので(漢字の体型を組み立てるのはかなり難しそうだが)、その前の段階、つまり言葉を持っているのかどうかが重要なのではないのかと思う。

言い方を変えると、言葉を使って考えるかどうかということだ。恐竜たちはそうはならなかったようだ。あんなに繁栄したのに。

さて、宇宙で手がかりが見当たらないのは、他の種族はずっと先に言っているか、他の種族はまだまだ遅れている(いずれも電波の伝播に時間が必要なので、問題はややこしくなるが)と考えるのが妥当だと思う。だがそれは妥当なのだろうか?

ドレイクの方程式において関係しそうな項はこれだ。「発生した生命が知的生命体にまで進化する割合」の項fi=0.01 (1%)で推測されていた。これを、仮に「発生した生命が言語を操るまでに進化する割合」と考えた場合どうなるのだろう? この場合、「知性」と「言語」というのは、大まかには同じような意味で考えていいと思う。

だが、どちらにせよ十分な知性体、十分な言語使用者が現れなければ、この条件も、この次の条件をみたすことはない。その意味では0.01でも大きすぎる推定値なのかもしれない。

なお、中世のヨーロッパには暗黒時代があった。ルネッサンスの前の時代だ。知性体は言葉を使えても、このように嵌り込むことがあるということだ。言葉を持っていても、社会の要請により限られた範囲に限られてしまうのだ。そのような嵌り込みや場合によっては後退はどの程度起こるのだろう? 場合によってはそれは非常に長いこともありえるのだろう。そういう世界は、エネルギーや材料の枯渇というのは考えなくて良いだろう。もともと使用料が少ないと思うので。

そうすると、まとめてみる。
  • 生物が言葉を使うようになるまでに進化する可能性は低い
  • 生物が言葉を使えるようになってからの期間に対して、言語による言語的活動が抑圧される期間が長い
fiをこのように分けて考えてみる必要があるのかも知れない。

SFについての良い論考




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「宇宙SF」の現在――あるいはそのようなジャンルが今日果たして成立しうるのかどうか、について : 稲葉振一郎 / 社会哲学


良い論考です。


宇宙SF(宇宙を舞台としたSF)が衰退したのはなぜかと論考しています。大雑把にはこんな感じかと。

  • SETIなどの観測における否定的状況(なぜか知性体の手がかりが見当たらない)
  • 物理学の発展がもたらした技術的限界という展望(超光速航行の困難さ(不可能かどうかはまだまだ分からないと信じたい)、そして宇宙のあまりの広さ)
  • 異星以外の異世界というものの認識

ただ、どうしても最後に述べる疑問に私は行き着いてしまいます。


細かい所で気になる点がないわけでもありません。レンズマンを持ちだしていますが、果たしてそれが適切なのかどうか。レンズマンがというわけではありませんが、「それを宇宙を舞台にしてやる理由があるの?」と言われてしまうと困るという作品があることも確かです。


また、記事を読んでもらうだけでもわかると思いますが、通時的に見ても共時的に見てもSFはパラダイムに結構断絶があるジャンルです。大雑把には、「SFってどんなジャンルかを定義しろ」と言われると非常に困るという感じです。


も ちろん、かつては宇宙がよく描かれており、今は少なくとも割合としては減っていると思います。ですが、実のところそこは問題ではないと思います。必要性、 可能性という話でもないと思います。重要なのはパラダイム、あるいは舞台を開拓し続けているという事ではないのかと思います。開拓し続けているといって も、新しい場所が開拓されたら元の場所を捨てるわけではありません。開拓され、受け継がれ、何か面白いことがあれば再度訪れることができる所がある。それ が重要なのだと思います。


さらに言えば、SFが他の文学と異なる点として、「誰かが開拓した場所を、他の人も利用 するのが普通」という点があります。サイバーパンクは誰かに特有の世界、あるいはパラダイムではありません。トールキンのミドルアース、ル=グウィンの アースシーを、他の作者が書くことができるでしょうか(狭義のファンタジーの内部がどうなっているかという話になりますので、ここはちょっと書き方が難し いところですが)? 出来ないとは言いませんが、それなりの違和感があると思います。あるいは、クトゥルフ神話と比べることもできるでしょう。クトゥルフ神話はラヴクラフト以 外にも多くの作家が使っています。ですが、それはSFと同じ状況でしょうか? 言い切るのは若干ためらいますが、違うように思います。例えて言うなら、SFはその中に、狭義のファンタジーやクトゥルフ神話という舞台を作り続けている ようなものかもしれません。


ですから、SFが宇宙を捨てない限り、あるいは失わない限り、「宇宙SF」という視点 で作品の多寡を見ることが果たして妥当なのかという疑問が生まれてしまうのです。そこで、この記事についての疑問として、1. 現実の限界 2. SFの限界という話 3. 読者が望 むものかという話、それらがこの記事では混同されているように思うのです。あと、単純な話として、舞台の数が増えれば、何らかの流行りがなければある特定 の舞台が占める割合は当然減るだろうとも思います。


ですが、面白い論考です。

ROBOCOP




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, Joel Kinnaman, 監督 Jose Padilha, Columbia pictures (2014).

んー。

前シリーズの1作め(だったと思う)。その最後のシーンにこんなのがあったような気がします。

「あなたの名前は?」

「マーフィー」

(違ってるかもしれません。)

今回のROBOCOPを観ると、たったこれだけの会話にものすごい重さを感じます。

前シリーズでは描かれていなかった(と思う)、製作過程(?)において人間性が次第に失われていく過程が、今作では描かれています。まぁ前シリーズだと、脳も全部は残ってなかったって設定だった気がしますが。

そうそう、映像的にもしかしたらちょっと心の準備をして見る方がいいかもしれない場面があります。これも前シリーズにはなかった場面だと思います。

おっと、そうだ。あれだけ視覚にデータを重ねると、さすがにバイクの運転とかに支障がでると思う。こう、なんというか、額の前のあたりに見える感じの方が良いような気がする。映像とするには少し難しいか、分かり難くなりそうなので仕方ないと思いますが。
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