小田 亮, ちくま新書(筑摩書房), 2000.
どうも以前から、「自分のようなエンジニアが考える『構造』と、構造主義における『構造』とは、なんか違うんじゃないか」と思いつつ、どこが違うのか分からず、微妙に悶々としておりました。本書では構造主義のというか、レヴィ=ストロースの言う『構造』とはどのようなものであるのかが簡潔明瞭に説明してあります。で、それが理解できているかどうかはまた別問題ですが。
しかし、本書を読んでみて、いろいろなところでバルトの言う『テクスト』的な事が有るのかもしれないなぁと思いました。神話の伝播や変換とか、著者が引用しているレヴィ=ストロースの言葉(例えば、pp.235-236)とか、そもそも「ブリコラージュも『テクスト』的だなぁ」などと思います。
その辺は、きっと研究された方が居るはずで、問題はどうやってその文献なり論文なりを見つけるかという方なのですが。万が一、そのあたりの仕事がされていないとしたら、困るなぁ。その辺りもどうにかならないと、本筋としてやりたい研究に辿り着けなくなるというか、その辺りの研究がされてると論拠をどうのこうのするのが非常に楽になると思っているのですが。
これで構造主義の勉強をおしまいにするわけではないので、またチラチラとあちこちを眺めながら,色々と構想を練っていきたいと思います。
どうも以前から、「自分のようなエンジニアが考える『構造』と、構造主義における『構造』とは、なんか違うんじゃないか」と思いつつ、どこが違うのか分からず、微妙に悶々としておりました。本書では構造主義のというか、レヴィ=ストロースの言う『構造』とはどのようなものであるのかが簡潔明瞭に説明してあります。で、それが理解できているかどうかはまた別問題ですが。
しかし、本書を読んでみて、いろいろなところでバルトの言う『テクスト』的な事が有るのかもしれないなぁと思いました。神話の伝播や変換とか、著者が引用しているレヴィ=ストロースの言葉(例えば、pp.235-236)とか、そもそも「ブリコラージュも『テクスト』的だなぁ」などと思います。
その辺は、きっと研究された方が居るはずで、問題はどうやってその文献なり論文なりを見つけるかという方なのですが。万が一、そのあたりの仕事がされていないとしたら、困るなぁ。その辺りもどうにかならないと、本筋としてやりたい研究に辿り着けなくなるというか、その辺りの研究がされてると論拠をどうのこうのするのが非常に楽になると思っているのですが。
これで構造主義の勉強をおしまいにするわけではないので、またチラチラとあちこちを眺めながら,色々と構想を練っていきたいと思います。