2010年07月

INCEPTION

Leonardo DiCaprio・渡辺謙ほか主演, Christopher Nolan監督, Warner Bros. (2010).

えー、遊んでいる暇はないのですが、映画を見てきました。

夢と言えば、アーシュラ・K・グイン(で良かったかな?)か誰かの小説だったか、あるいは本当にそういう神話があるのかは知りませんが、この世は神が見ている夢だという物語があったと思います。映画とは関係ありませんけど。

内容としては、ものすごく大雑把にいえばウェットウェア版サイバーパンクというところでしょうか。それなりに面白かったですけど。ただ、階層が入り混じって話が進行していくので、ちょっとややこしいです。

で、他人の夢の中に入るわけです。その時点で既に干渉しているわけですが、干渉している側の無意識も干渉に関わってくるというのは面白いと思います。

最後の場面で、トーテムである独楽が回り続けるのか、それとも止まるのか、微妙なところで終っていたのはいいですね。

見落としているのかもしれませんが、シンボル的なものがきちんと入ってきても良かったのではないかと思います。

資料の1時間を45分のことだとすると

えー、資料の1時間を、45分のことだとして計算してみます。2単位の科目の場合です。

学修時間の基準=(45時間 x 2単位 x 45分) = 4050分
=4050分 / 60 分  #1時間=60分に換算
=67.5時間

講義時間 = (90分 x 15回) = 1350分
= 22.5時間

1科目あたりの自主的な学修時間の基準
= 学習時間の基準 - 講義時間
= 67.5 - 22.5 = 45時間

1コマあたりの自主的な学修時間の基準
= 1科目あたりの自主的な学習時間の基準 / 15
= 45 / 15 = 3時間

どっちにしろ、1コマごとにそれなりの自主的な学修時間が必要なようです。

追記

ひとつ前のエントリについて、ちょっと思い出したというか思いついたことがあるので追記。

一般向けの資料だから、1時間は1時間なのだろうとおもうのだけれど、もしかしたら、1時間=45分で計算されているかもしれない。なんか、その方が切りがいい数字になるような気もする。

また、ちょっと調べてみます。

大学での単位認定の基準

今日の会議で、単位認定や講義内容について、その難易がどうのこうのと言う話がありました。

で、20何年か前の記憶を手繰ると、講義+自習時間で何時間かの勉強で単位認定の条件の一部なのか半分なのかを満たすという規則があったように思います。(残りは当然試験結果です。)

というわけで、ググってみました。

文部科学省のなんかのページで、「Q3 日本の大学の現状について、「授業に出席しなくても単位が取れる」「勉強しなくても簡単に卒業できる」などの声を耳にしますが、これについて大学はどのような対策を講じているのでしょうか。」というところです。

>授業の設計と教員の教育責任
>我が国の大学教育は単位制度を基本としていますが、同制度は、
>教室での授業と授業の事前・事後の準備学習・復習を合わせて単位を
>授与することを前提として おり、各大学において1単位当たりの必要な
>授業時間を確保するとともに、学生には大学の教室で授業を受ける
>だけでなく、教室外においても自主的な学習を行 うことが求めらます。

それと、具体的にはこうです。

>履修科目登録の上限設定
>我が国の大学における1単位の授業科目は45時間の学修を必要
>する内容をもって構成されることが標準とされており、このことを
>踏まえると、一定期間に受講できる授業科目の数には自ずから
>一定の限界があります。
(赤字は私が付けました)

20何年前というと、私は学部の1,2年生です。なぜ、そんな時期にこんなことを知っていたのかは内緒です。ちょっとした必要があって聞いたり調べたりしたとだけ書いておきます。

それはともかく、一部の講義を除いて、1科目2単位でしょうから、1科目あたり90時間という計算になります。はい、大学生のみなさん、ご存知だったでしたか? 1.5時間の15回としても、22.5時間です。それプラス67.5時間(講義時間の3倍)の自習が必要というわけです。つまり、講義を受けた時間の3倍の自習をやっていなければならないという計算になります。(んー、こんなもんだった気もしますが、ちょっと厳しい条件ですね。1.5時間の講義を受けたら、4.5時間になります。「1単位」と書いてありますが、講義1科目かもしれません。その場合、講義時間と同じだけの自習時間となります。あ、そうか。演習とか学生実験の単位の出し方との区別で、普通の講義は90時間で良かったかもしれない。)

単純な話に落として書きますが、例えば講義の演習問題などは、講義中にやるのではなく、自習としてやるように想定されていると言っていいでしょう。だから、大雑把な話、「演習をやっておけと言われたが、やっていない」というのは、本来ならば単位認定の対象にならないわけです。あるいは、「一問一問の解き方を丁寧に教えてもらえない」というのも、的外れな意見なわけです。

まぁ、これは建前と言えば建前ですが、教員側としてはそういう前提で講義を行ないます。ですから、自主的な学習なしに、「難しい、分からない、単位を取れない」と言っても当たり前なわけですね。

そういう規則があるということを覚えたうえで、遊んだりバイトをしたりしてください。

ドイツ語はー

S.N.A.氏、コメントthx。

んー、ドイツ語はー、実は必要と言えば必要です。

でも、大雑把な話になりますが、英語が同じ語派・語群(だったかな?)なので、英語に翻訳されているのでまぁいいんじゃないかみたいなところで、今のところお茶を濁している感じです。

ロシア語が必要かなというのも、ドイツ語が必要かもというのと同じような理由です。あ、ロシア語は、英語、ドイツ語とは語派あたりで分かれているので、語派だのなんだのを引き出して、「英語の翻訳で構わないか」というわけにはいきません。現実的には、英語あたりの翻訳でないと手がでないという理由はありますが。ただ、試料として扱う対象について原典原理主義(原典を試料としなきゃダメ的な主義ね)で行くなら、ロシア語もドイツ語も必要になります。そういう意味では「同じような理由」です。
(試料については、人によっては資料だとおもう。)

英語

試験とか採点とかの時期です。

分担した科目の1つが、技術英語でした。この教科が、今年から方針が変わって、技術英語をさくさく読んでいこうというようなものになっています。テキストを選んだのは、学科のカリキュラム担当の先生方です。ただ、テキストの英語が、口語、文語というと違うな。なんて言えばいいのでしょうね。まぁ、普段使いの英語っぽいところが結構ありまして、学生にはちょっときついかなというところもありました。

高校までの、あるいは学部の普通の英語の授業・講義では、文法にのっとって精読するような感じのやり方ではないかと思います。あるいは、精読というより も、先生の説明を聞く感じかもしれません。この講義では、さくさく読んでいくというあたりで、それとはまるで違うやりかたで英語を読まなければならなかったので、学生としても面喰らったとい う部分はあると思います。

それでも、英語は基本的な単語と文法事項を一応押さえておけば、あとは量を読めば多分何とかなると思います。読んでいるうちに、語彙も、文法事項も増えていくと思いますので。

問題は、この講義の後は、量を読む機会が、おそらくは卒研にかかるまで、あるいは修士に入るまで無いであろうことだと思います。こんな感じの読み方を、毎年、半期ずつでも続ければ、卒研に入る時にはずいぶん違うのではないかと思います。なので、ちょっともったいない感じがします。

興味の対象

まぁ、誰がどうしたというわけではありませんが、世の中には鉄っちゃんと呼ばれるような人たちも居ます。その人たちをどうのこうのという訳ではありません。興味の対象は人それぞれなので。

で、私はと言えば、例外はあるものの、人が計画してどうのこうのしたものには興味がありません。例外は、多分、人工言語(国際補助言語とか、国際計画言語とかとも呼ばれるみたいです)と、プログラミング言語、そして結構広い意味での物語くらいでしょうか。物語りについては、人が計画したもの、計画したものではないもの、そしてその間のどこかに位置するものと多様ですけど。情報系で来ていますが、コンピュータその物には、理論も含めて、別に興味はなかったりします。必要に応じて勉強してきていますし、勉強していますが。ん、ちょっと語弊があるな。

もともと大学入学時に情報系に進んだのも、なんとなく思い描いていたやりたいことをやるためには、ツールとしてコンピュータを使うと良さそうという理由であって、コンピュータそのものに興味があった訳ではありません。あ、そう言うとやはり語弊があるか。まるで興味がなかった訳でもありませんが、興味の中心にはなかった訳です。

変な話ですが、興味の中心にないことでも、ずっとやって来れているということで。まぁ、一つ前のエントリで書いたように、理系だか文系だか分からないことをやっているとか、そんな私が変なのかもしれませんが。

理系思考

―分からないから面白い―, 元村 有希子, 毎日新聞社, 2007.

発行されてすぐに買っていたのですが、ほったらかしでした。先日、発掘し、ちょっと読んでいます。読み終わっていませんけど。

例えば、「水兵リーベの悲劇」(pp.39-44)なんかに、こんな記述があります。

そんな私が科学・技術を専ら取材するようになったのは皮肉な話だが、大人になって科学と再会したとき、目からうろこが落ちるおもいをした。

それは、研究者が「分からない」という言葉をいとも簡単に口にすることだった。

考えてみれば、分からないから面白いのだ。分からないことが分かるようになることを発見と呼んだり発明と言ったりもする。そもそもすべてが分かってしまえば、研究者は失業してしまう。技術者だって一部しか生き残れなくなるだろう。

かろうじて研究者としての立場として言えば、そうです。研究者は、分からないと平気で言います。分からないから研究しているわけですから。

しかし、卒業研究なんかに来る学生にとっては、先生が「分からない」というと、不安になる人もいるらしいです。分からないからやるんだということ自体を理解していないのかもしれません。あるいは、分からないという状態を維持する事自体に不慣れだったりするのかなという印象もあります。卒業研究も、具体的にどうやったらいいのか、どういう結果が得られるのか、そういうものを模索しながら、一年なり半年なりかけてやっていくわけです。学生実験みたいに、やることも答えもはっきりしていることをやるわけではありません。そういう、先が見えない状態は、まぁそれは確かに不安でしょうけど。以前書いたマニュアル化の問題なんかも関係しているのかもしれません。

また、「科学技術を鍛える」(pp.14-18)には、こんな記述があります。
こんな生徒はごく一部で、多くの教師や生徒は成績や教科の好き嫌いだけで文理を決め、疑いもしない。さらに悪いことに、文系か理系かを一度決めてしまうと、進路変更はほとんど不可能だ。
まぁ、何と言いましょうか。別に「(ほとんど)不可能」ではありません。私も、学部からずっと工学系で来ていますが、修士に入るときには文系(心理系ですけど)に行くことも考えました。工学部からの文転では基礎的なところを勉強する機会があった方がいいだろうということか、そもそも「こいつは修士に入る力量があるのか?」と思われたのか、それは分かりませんが、ともかく、一回研究生をやってからという条件付きではありますが、受け入れても構わないという返事を頂いたことがあります。(研究生自体、その先生のところで受け入れOKという返事を頂いていました。いろいろと考えて、「こちらから言っておいて申し訳ありません」ということになりましたが。)

私の場合、工学系単科大学だったので、転学部という選択肢はありませんでしたが、総合大学なら、それも可能でしょう。

要は本人の気持ち次第だと思います。

で、私は今も工学系(センターと学科・専攻の兼務ですが)に居るわけですが、ちょっと前のエントリなんかを見てもらえば、まぁ分かる人には分かるかなという感じで、理系なんだか文系なんだか分からないことをやっていたりします。結局、学歴・職歴としては理系(工学)でずっと来ているわけですが、やりたいことをやるには別に理系も文系も関係ありませんから。自分の気持ち次第です。

好奇心や興味を持ちつづけるとか、好奇心や興味を広く持つとか、結局は本人の気持ち次第だと思います。

私の感覚からすれば、世の中で、そんなに文理が分離しているとしたら(笑)、その方が変です。もっとも、そんなことを言えるのも、情報系だからかもしれませんけれど。

総合自己評価

Yomiuri Online 大学の実力 総合自己評価

> 今年の「大学の実力」調査でも注目を集めたのは、総合自己評価。
>学習・生活・就職支援の「成果」を5段階で尋ねたのに対し、
>A(とても成果がある)とB(やや成果がある)に集中し、C、D、Eは
>合わせて3%弱だった。

まぁ、自己評価ですからそれはそれとしますが。「大学の実力」というくくりで、大学側の支援などだけを評価対象とするというのはどうなんでしょうね。

教育というのは、いわゆるサービスだったり商売だったりとは違う面があるわけで。お金を出せばものが出てくる自動販売機や、店とは違うわけです。学ぶ側の学習時間などの努力も必要になるわけです。極端な話ですが、「この問題を試験に出す」と講義中に言って、本当にそうしたとしても、その問題すら覚えようとしなければ試験に合格できないわけですから。

学生側についての調査もやらないと片手落ちなような気がします。

例えばの話、退学率が50%という大学があったとしましょう。で、学生の、講義を除いての学習時間の平均が毎日30分だとしましょう。どちらに責任があるということは言いませんが、これで「退学率50%」とだけ報じられてはたして妥当なものかどうか。

まぁ、この手のことを書くと、「学習意欲を持たせられない学校が云々」という話も出てくるかと思います。それで学習支援センターみたいなものがどうのこうのと言うこともありますが。それはそれで一理ありますが、自分で学習意欲を持てない人がなぜ大学に来ているのかという根本的な問題もあるわけです。

雛鳥だって「餌をくれ」とさえずるくらいのことはします。そのくらいのこともせずに、「学校側の努力が足りない」というようなことを言われても、なんだかなぁという気持ちになります。そのあたりをはっきりさせるためにも、学生側についての調査が必要ではないかと思います。

まだ寝てない

金曜日の習慣で、映画上映のチェック。

ちょっと遠出になるところで、この週末というか月曜も含めての3日間でインセプションの先行上映やるみたいだ。エアベンダーも上映している。でも、上映開始の時間がなんか微妙で、一日に二本観るのはどうなんだろう? 一応出来るなぁ。微妙に間が空くけど、ショッピングセンターと一体化してるから、ちょっとなら時間を潰せるし。この3日間の間に一日潰して観て来ようかな。
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