2013年09月

思い出したり考えたりするとき

先日、久しぶりに人から言われたので。

何かを考えたり思い出したりしようとするときに、目をつむる人は多いと言うか、普通だと思う。私もよくやる。

で、指摘されたのが、目が上を向くとか横を向くとか目の焦点をずらすとか顔を横にそらすとか。これも私は小学校の時から普通にやる。で、これが、気になる人には気になるみたい。まぁ顔を横に逸らしたら気はなるかも。私個人は若い人がこちらの質問の後に顔を逸らしても気にならないけど。まぁそれは自分はそうやっているという自覚があるからかもしれない。

なぜ、目をつむったりするかといえば、小学校の時に指摘された時にも考えたのだが、要は眼に入るものが邪魔だから。顔を横に向けても、目にはいろいろ映るけど、まぁ動かないものとかが目に入っているので、無視できる。目をつむっているのと同じ。

で、視覚を遮断して何をやっているのかというと、視野への投影みたいな感じのこと。投影というか、視野の感覚で頭の中身を見ているという感じかも。なので、感覚的には記憶や考えていることが見えている感じ。

歩いてる時も、視覚は放っとくこともある。なんか自動操縦みたいに動くような感じかなぁ。この場合には、目に写っているものもボヤケた(?)ような感じで見えているけど。ぼーっと歩いてたとか、考え事をしながら歩いてたとかあるけど、そういう時と同じだと思う。

小学校の時に、目を瞑るのはOKで、顔をそらすのがなぜダメなのか分からなかった。視覚を遮断してるのは同じなのに。そんなことを話していて気づいたのが、他の人は視野への投影みたいなことをやっていないらしいということ。そっちの方が分からないや。投影したのを確認せずに、どうやってるんだろ? 単に意識していないだけだと思うんだけど。

まぁ、短期記憶と中記記憶(?)との間のようなものなので、あまり多くのものを投影しとけるわけでもない。ただ、この辺りにコレを投影みたいな感覚はあるので、そっちを向くと、忘れてても思い出してそこを再度投影みたいなことはするけど。

なので、単にそういう意識があるかどうかだけの話だと思っていたのだが、話してみると、なんか少し違うみたい。

小学校の時には他にも有ったな。担任の先生が産休に入ったので、臨時の先生が来たのだが、最後に(だったと思う)、なんか全員ノートを見せるようにみたいなことになった。で、なんか知らんが、俺のノートを見て、「XX君、私をバカにしているの!?」みたいなことを言われて、こっちはポカーンな状態だった。単に字が汚いというだけの話だったけど。級友が「XXは字が汚いですよ〜」と弁護(?)してくれて助かった。別に誰かに見せるためのノートじゃないんだから何を書いといたって構わないと思うのだが。

正直に言うと、今でも、少し前に書いたノートを見て、自分でも「何が書いてあるんだろ?」と思うことはある。まぁ、読むわけじゃなく思い出すから問題ないけど。まぁプログラムのソースなんか、きれいな字で表示とか印刷されてても、「何が書いてあるんだろ?」と思うわけだから、同じだと思うんだけどなぁ。大学の時に、先生の赤に何が書かれているのかがさっぱり読めないというのを経験したのも、自分のノートにはどう書いといたっていいじゃんというのを強くしてるかも。

あとは、思い出すというようなときは、2段とか3段とかくらいの構えでやる。なんて言うんだろ? うーん、言葉にすると、foregroundとbackgroundで少し条件を変えて思い出すという動作を動かす感じかなぁ。なので、foregroundでの結果を口に出している最中に、backgroundの結果が返ってくることもしばしばある。単に、思いだしたのを口に出している最中に、別の何かも思い出したというのと同じ。仮に違いがあるとすれば、条件の違いを意識しているかくらい。

そんなで、考えるのも思い出すのも、同じことやってるはずなのに、なんで何かを言われるかなぁという感じなのが正直なところ。

ノートとか黒板とかの電子化

記者会見とかで、記者の人がノートパソコンを広げてパチパチとキーを打っている場面を見たことがある人は結構いると思います。まぁ、正直うざったい。タブレットより確実に&(多分)楽に入力できるからノートPCを使ってるのだと思うけど。

私自身もPCやタブレットをノート代わりに使っていないのかというと、使っています。でも不便。doxygenの類は便利だけど、使っていてイライラする。ベタ書きしてもメモかコメントか説明かを自動識別してくれるようなものだと便利だけど。図、表、絵(ポンチ絵も、図とアイコンの間みたいなものとかも)、数式とかを楽にかけないので。なので、ノートもメモ帳も紙を使うことが多い。デジタルの方が便利なこともあるけど、その辺りが大きく、移行はまだ出来ない。もちろん、図とかを自由に書けるアプリなんかもあるけど、線の太さとかその変更とか色の指定とか、結局面倒臭い。色については単色でいいんだけど。それと、普段、A4のノートを使っているけど、広げているとその面はA3であって、広いというのもある。

本も、kindleを無駄に複数台持ってたりするけど、やはり同じ理由で結局紙の本を使う方が圧倒的に多い。kindleとかにも注釈を書く機能はあるけど、図とか何とかはまだちょっと(本に書き込みをしない人も多いと思うけど、私は書き込む派なので)。

黒板をデジタル黒板にするという話もあるけど、正直無理。まず画面の広さがまるで違う。「デジタルにすれば、何ページか前というふうに行き来できる」という話もあるけど、面倒臭い。だいたい、「ここは後で使うから、消さずに残しておく」とかいうやり方もあるけど、それは広い画面があるからできること。もう、本当に、画面の広さだけで、デジタル黒板は不採用。採用はありえない。

とは言え、サブの表示装置として使うことは考えられないでもない。でも、上にも書いたけど、線の太さとかその変更とか色の指定とか、面倒。なぜ面倒なのかというと、指定があるから(ペン自体が複数存在し、個々のペンに色の情報が入ってるというのは存在する。これだと、指定というよりも普通にペンの持ち替えなので、いくらかまし)。指定があるってのは、要は、viとemacsのどっちを使いますかというような話に通じる(まぁ、vi (とか今ならvim)は高機能だし、このエントリで言っているような、「話にならない」もののような感じで例に出すのは間違っているけど。モードを意識するかどうかというところだけの比較ということで)。

デジタル黒板だと、PCの画面あるいはウインドウをデジタル黒板に飛ばせるという利点はある。で、その上に何か書き込めるというのも便利だ。でも、そもそもの黒板の画面が広いという利点を潰すには遠く及ばない。若い人のノートの内容を飛ばして表示というのも便利だなぁとは思うけど、これまでに書いたものを残しといて、その横に飛ばして表示となると、結局画面が狭いので無理が出てくる。で、普通の黒板とデジタル黒板を併用しようということになると、デジタルの方はなくても別に困らないことに気づいてしまう。ただのプロジェクタか、単なる大きいディスプレイで済んでしまう。

まぁ、ノートでも黒板でも、今のところの技術だと画面が光っているので、無理。目が疲れる。さんざんPCを使っていて今更何をと思われるかもしれない。でもタブレットを使って、やはりそう思う。ノートとPCだと、目と画面の距離の問題だと思っていた。でも黒板も無理と気づくと、別の要因があるのかもしれない。いや、単に部屋の明るさと画面の明るさが云々という、結局光ってるというところなのかもしれない。

「あー! これはデジタルにしない/したい!」という、キラーコンテンツ的なものが無い。で、そもそも何がどうなって欲しいかという根幹の部分で、「広さ」というのが絡んでくる。これは困るかも。技術開発は続けて欲しいけど、現状ではまだちょっとなぁという状態だと思う。

試料

仕事で使う試料の訳と選別をやっている。選別の方は、それなりに馴染んだやり方をするのだけど、これも結構たいへんだ。「これが正解」というのがあるんだかないんだか。プログラムにかけた結果として、分析しといたものと別の結果がでたとしても、「あー、それもありだ」と思えれば、それも正解だしなぁ。でも、「あり」だと思ったものを、言わば後からOKにするってのもどうなんだか。それは単に、分析時の不明であって、「分析をやり直しました」というような態度でいいのだが。モデルに、まるで引っかからないものだけは多分捨てられると思うけど。

でも、訳や選別をやっていて、やはり、今、扱っている試料とは別の試料も付け加えた方がいいかもしれないと思い始めた。今の訳と選別で、いくつ残るのかにもよるけど、後で付け加えてもよさそうならそれでも構わないか。付け加えたい試料ではあるけど、元ネタでどれを使っているのか、そもそも手元にある試料というか試料候補に、元ネタに入っているのがどれだけあるか分からないしなぁ。元ネタの本に、元ネタが使った試料と言うか資料の一覧が出てはいたけど、その一覧に書いてあるタイトルに英語訳のタイトルがあったかなぁ? 無いとしたら、タイトルでの選別が難しいなぁ。もっとも、元ネタの試料なんだか資料と手元にあるのとが違うし。同じもの、あるいはそれに近いものが欲しかったが、いろいろとFreeなのでは見つからないし。また探してはみるけど。いやまぁ、手元にある試料は、別の言語からの英語訳なのだが。元の言語と英語はちょい別系統の言語だから、「まぁ、そこでの翻訳はどうにかなっているでしょう」と思っていいのかどうかも分からないし。

今、訳と選別をやっているのも、手元にある試料は英語だが、それの元は別の言語だし。それをさらに日本語に訳して、いいのか悪いのか。英語版を計算機に分析させても、結果を分析するときに面倒臭そうだし、若い人にその辺りをいろいろ教えるのも大変だし。まぁ、文字列的な意味での言語とは別のものを試すためにやることだから、言語は関係ない。やはり日本語に訳す際に、つまりは先に苦労しとくことにしておくのがいいかもしれない。というわけで、訳と選別でまだまだ悩むのであった。

フューチャースクール推進事業

平成24年度フューチャースクール推進事業の概要普及啓発映像「教育分野のICT化に向けて」というビデオがあるみたいです。

なんだか、見ていて涙が出てきました。悲しくて。

なんて言えば良いのだろう。児童がかわいそうと言うか、なんと言うか。

なんで、誰も何も言わなかったのだろう。

もちろん、最先端で固めるわけにも行かないというのは分かる。

それにしても、実験事業なんだから、随時イメージとか理念とかの更新をすれば良いのに。昔見たイメージ映像のままだよ。せいぜい無線LANとタブレットになっているくらい。でも、そんなのは理念とかイメージとは関係ない。

これで「フューチャー」って言っているのが、なおさら泣けてくる。もう、それは過去だよ。

「イメージしたものがゴール」という発想かもしれないけど、そうじゃないんだ。「イメージしたものがスタート地点」なんだよ。

神の数式2

42を、496に書き換えたくなる構成とか編集だ。(2013-Sep-23 11:07 42にリンクを貼りました。)

ELYSIUM

, Matt Damon, Neill Blomkamp監督, Sony Pictures Ent., 2013.

一番印象に残ったのが、「外骨格の取り付けがキツそう」とか、「デジカメかよ」とか。

英語、(多分)スペイン語、フランス語(のような気がする)あたりが使われてます。監督が言葉にこだわりがあるのかもしれない(「第9地区」について書き忘れ)。それに、英語だけど訛りがかなり強い、敵役とか。あれはどこ訛りなんだろ? あんな訛りでセリフを言えるのだから、役者って凄いな。

追記(2013-Sep-22 20:15) ==== BEGIN
パンフを読んでたら、敵役の訛りについて書いてありました。そもそも敵役の役者が第9地区の主役だったSharlto Copleyです。それでなのかどうなのかは分かりませんが、敵役のひどい訛りは、南アで使われているけど、かなり稀な訛りだととの事。Sharlto Copleyがそのネイティブなら話せて当然ですが、そういうわけでも無いと思います。なので、やはり役者は凄いなと思います。
==== END

言葉以外にも、バイオとか生体技術とかサイバネティクスは、監督の好みかこだわりなんだと思う。

隔離(どっちが隔離なのか分からないけど)と、それへの抵抗というのは第9地区と同じ構図です。良いとか悪いとかではなくて、監督としてはまる構図なのだと思います。構図は同じでもいろいろな話は作れるし、見せ方もいろいろだと思います。

コロニーに天井がないのが気になりましたが、確かにそういうのも提案されてた気がする。実際に大丈夫なのかは知りませんが。

話としては、第9地区より丁寧に作ってあると思います。面白かったです。でも、個人的には第9地区のエンディングの方が好きかな。

神の数式1

4つの力を統一的にってのは、まぁそうなるよなぁと思う。

で、ちょっと気になるのが、インフレーションとかでのマルチバースだと、物理定数あたりが違う宇宙も現れるという話を聞いたことがある。

もしそうだとしたら、4つの力を統一的に記述できるようになったら、その式をマルチバースにまで広げるのだろうか? 広げられるのだろうか?

4つの力の統一的な式が一回できれば、あとは観測すれば、その宇宙でのそういう式は書けると思う。そういう式が複数得られたとして、それを統一できるのかな? あるいは、どういう式が出てくるかという言わばメタモデルを作るのか?

あと、実際上問題ないんだろうけど、クオークにアップとダウンしかないように見えるけどいいのかいね? いいんだろうけど。チャームやストレンジの扱いってどうなっているんだろ?

それと、ダークマターとダークエネルギー。どうなるんだろ?

あ、そう言えば、なぜ静止質量と慣性質量が等しくなるのかは分からないと、昔、聞いたことがあるけど、これって解決されたのかな?

本を「この辺り」で開くとき

本を、「この辺り」という感じで開くときがあります。

で、Kindleは前から何%のあたりとか何ページという指定でそこを開くことが出来ました。でも使ってみると、どうも感覚が違う。

なので、自分で観察しなおし。

その結果、本の初めから何cmあたりという絶対的(?)な感覚と、何%という相対的な感覚を総合して、「この辺り」という感覚が出てきているようだ。

とりあえず、電子書籍については何%という感覚で使うように矯正しようかと思う。

SmalltalkとsqueakとFORTH

先のデジタル教科書という記事で、こう書きました。

あと追加すると、Dynabook構想で、smalltalkやsqueakを生で使うのは無理がある気がするというところでしょうか。

これには、二つの理由があります。smalltalkもsquakも、生で学生が扱うのは、ちょい複雑(複雑というのは、言語も複雑ですし、作り上げられたシステムが複雑だということもあります)だということが一つ。scratchとかは、むしろいろいろ隠し過ぎていて、これまたちょっと向かないと思う。

で、FORTHですが、FORTHのシステム自身を書き換えられました。smalltalkもsqueakもシステム自身の書き換えを許容ないし推進している。ですが、FORTHでちょっと痛い目にあった自分としては、システム自体の書き換えを許すのにはすこし懐疑的です。出来たほうが良いとは思っています。ただ、その影響を考えると、ちょっと腰が引けてしまう。大雑把な話し、OS自体を自由に書き換えられると思ってもらってもいいです。それはとても便利だけど、とても危うい機能だということは想像がつくと思います。

まぁ、ユーザのやることはすべてサンドボックスでというあり方もあるのでしょうが。

まぁ、smalltalkやsqueakは先を見たビジョンの上でいろいろ動いているので、どうなるのかは分かりませんが。

かと言って、教育用にどのような言語がいいのかはわからないのですが。ただ、手続き型に固定(?)されるのは、それはそれで避けて欲しいと思います。

デジタル教科書

ここのところ、タブレットが出たことで、デジタル教科書とか話題になってますね。タブレットが出た直後からそういう話はありますが。なんか、私が若い頃から何回も見ている、どこかで見た風景。成功するかどうかは分かりませんが。

佐賀県だと、高校生に5万円で売るとか。しかもMS-Windowsが前提になっている。正直、「なぜ?」という言葉しか出てこない。デジタル教科書を作る側の都合でしょうか。デジタル教科書を作る側の都合だとしたら、いまいち納得できません。今どき教科書の内容なんかデジタルデータになってるでしょうから、それをタブレットに流し込めばいいだけ。教科書の内容以外のところでどうのこうのということはあるでしょうが、だとしたら、技術をもってないだけ。MS-Windowsを前提にする理由にはなりません。例えば、FireFoxスマホとか出てますが、あれはブラウザが前面に出てきてます。つまり、要はブラウザにデータを流し込んで、メモ書きできるアプリでもいれればいいんじゃないですかね。動画へのリンクも張れるし。

ディスプレイも、CRTからLCDからスマホとかの有機ELとか使って来ていますが、タブレットを使って思ったのは目が疲れるということ。目とディスプレイの間の距離が近いからかと思いますが。そんなので授業なんかできません。カラーの電子インクってのはすでに開発できていて、そろそろ大量生産も出てくるはずなので、そっちの方が教科書を読みやすいかなぁと思います。

メモ書きも、図でも絵でも表でも数式でも文字でも、好きなときに好きなところに好きなことを書けないと。それと、「あ〜このあたり」という感じで好きなページを開いたりできないと。この2つは最低限の条件でしょうか。

現状で、デジタル教科書を推進したい人たちは、「なんかこんな物が出てきたから凄い」としか思っていないのではないでしょうか。そんなのは、「ごめん、50年前に概念が出てる」としか言えない。

なんて言ったらいいのか分かりませんが。「『今』を見て、反応している」という感じでしょうか。「『過去』から『未来』を見ていて、その中に『今』を位置づけている」のとは違う気がします。

んー、IBMの標語(?)が"Think"だったり、Appleが使った"Think Different"とかあります。で、私が気に入っているのは、MaxHeadroomに出てくるZikZakという日系(?)超巨大企業が使っていた"Know Future"というものです。細かいことを言えば、"Know Future"というより、"We know future"という感じかなぁ。

"Know Future"は"Think"や"Think Different"に近い感じがします。何と言うか、「どうにかして知れ」という感じかなぁ。それは、"Think"だったり"Think Different"という意味になるように思う。何と言うか、「『今』からどうにかしろ」という感じかなぁ。

ですが、"We know future"だと、すでに「知っている」わけです。突然、知っていることになるわけではないので、「『過去』から『未来』を見ていて、その中に『今』を位置づけている」というものに、こっちの方が近いのではないかと思います。

この違いが実は結構大きいのではないかと思います。

話が飛びますけど。知性の根本要因はなにかと考えると、「割り込みをかけられる」ってことじゃないかと思います。脊髄反射とか本能任せではなく、「ちょっと待った」と随時任意に割り込みをかけられる。まずここからはじまるのではないかと。

さて、『今』を生きている人には、割り込みは不要です。『今』しかなのだから、割り込みをかける理由すら無い。なお、これは、「永遠の今」という世界観とは全くの別物です。

「『過去』から『未来』を見ていて、その中に『今』を位置づけている」人にとっては、どうしても割り込みが必要です。過去も未来も膨大な可能性があり、『今』は何かを選ばなければならない。えーと、過去にも膨大な可能性があるというのには違和感がある人もいるかも知れませんが、そういう世界観もあるとだけ。書くのは面倒なので。歴史にifは無いなんて話もありますが、ifはありまくりです。

まぁ、"You can't know future"とか面と向かって言うわけにもいかないので("don't"ではなく"can't"なのがミソ)。

今回のデジタル教科書の試みがうまく行かかどうかは分かりません。でも、「5万円はないだろ」とだけ。

あと追加すると、Dynabook構想で、smalltalkやsqueakを生で使うのは無理がある気がするというところでしょうか。
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