2013年11月

最近の教育に関する報道などについて

以前、少し書いたような気もするけど、検索で出てこないなぁ。というわけで、そのあたりも含めて書きます。

えーと、神話とか昔話には、現在の人から見ると非合理的な話があったります。今どきはそういう考えは少ないのだろうなと思いますが、非合理的なところを見て、昔の人(有史以前とか、クロマニヨン人系列とかも含めて)の知的レベルが低かったからだという意見もあります。

私としては、そういう話でもなかろうと思っています。というわけで、人間の知力(?)を、「何を知っているのか&何を信じているのか」と、「どのように考えるのか」に分けて考えてみます。もっとも、そんなにすっぱり切り分けられるものじゃありません。例えばの話ですが、「知っている」の方は、Prologのプログラムに与える事実に相当するとしましょう。「どのように考えるのか」は、Prologのエンジンそのものの機構のようなものに相当するとしましょう。こんな単純な比喩であっても、「じゃぁ、Prologのプログラムのルールはどうなるんだ?」という疑問が湧いてきます。いやー、どっちなんでしょ。

ともかく、このように2つに分けるとします。何を知っているのかについては、昔と今とではまるで違います。ですが、どうも「どのように考えるのか」については、そんなに変わっていないのではないかと思っています。「どのように考えるのか」が変わっていなくても、「何を知っているのか」が違えば、何かを見た時にどのような結論に至るのかは当然異なります。例えばの話ですが、天動説の下であっても、観測に合うように精一杯頑張って理屈をつけていたわけです。まぁ、「どうもおかしいよなぁ」ということも発見されていたわけですが。でも、そのあたりもいろいろと「どのように考えていたのか」の問題ではないように思えます。「何を知っていたか&何を信じていたか」の問題ではないかと思うのです。単純に言えば、追求していた事自体は間違いない(その追求が教会によって禁じられていたりとかいろいろありますが、それについてはちょっと下で書きます)。で、その追求にあたってのどのように考えるのかは、変わりないようにしか思えない。

で、神話や昔話ですが、これは部族などなどによって違いがあるのでおおまかな話にしかなりませんが、ちょっと書いておきたいことがあります。神話や昔話は、部族などにおいて好き勝手に語られてきたというイメージを持っている人もいるかと思いますが、そういうものでもありません。語ることを許された人たち、あるいは語る権威を持った人たちが居ました。で、これについての素朴な感想として2種類あります。1つは、そういう人たちは伝えられた通りのものを語っていたというもの。もう一つは、そういう人たちも語り間違えたり、思いつきで内容や語り方を変えたというもの。まぁ、どちらもあながち間違いではないのですが。ですが、語ることを許された人たちは、語る内容と語り方についても変えることを許されていました。これは、好き勝手なことを語っていいという意味ではありません。大雑把に自分たちのバックボーンになるものですから、好き勝手に変えて良い訳がありません。では、なぜ変えることが許されていたのか? 単純な話で、どのように考えるのかを訓練されていたからです。語る内容や語り方を変えるとか、自分たちのバックボーンという言葉からは正史史観も連想されるかもしれませんが、それはまったくの別物。正史史観だと、目的に沿っての書き換えが基本だと思います。ですが、部族とかにおいて語ることが許された人たちは、思索によっての書き換えが基本と思ってください。さて、キリスト教の場合ですが、秘密部隊ってわけじゃないですが、考える人たちがなんだかんだ言っていました。そりゃ、居なければ異端審問そのものもできない(Monty Pythonのスペイン宗教裁判みたいなまぬけなわけがない。いや、まぁあんな感じと同列のマヌケも居たかもしれませんが)。まぁ、針の先の上で何人の天使が踊れるのかとかやってましたけど。考えることを禁止していたキリスト教でも、考える人達は内側にも外側にも居たわけです。聖書自体もちょこちょこ変更が入ってますし、変更ではなくても注釈はガンガンつけられています。

「何を知っているのか」というものは、単純な話としては教員の側からは「覚えてね」というものです。それに対して、「どのように考えるのか」については、これ、教員の側から学生に「頑張ってね」というだけでは無理です。

古代ギリシアの哲学者たちは、対話を重視していました。この記事を哲学者達と並べるつもりはありません。ですが、どのように考えるのかについては、対話を通した訓練以外に、身に付ける方法がないのではないかと思うのです。対話と言っても、古代ギリシアだったら対面か手紙でしょう。現在でも対面と手紙はありですが、他にも電話、電子メール、google Docsのドキュメントなどなどいろいろとあります。ともかく、対話・議論が行なわれること自体が必要です。昔の文壇や学会でも、雑誌や会誌をつかって、書簡を公開することで誌上討論とかやってました。そういうのも込みで。

対話・議論というと、コミュニケーション力とかを思い浮かべる人もいるかも知れませんが、そんなもんはどうでもいい。どのように考えるのかの訓練であり、自分の考えの誤りに気付く機会であり、弁証法的に少しでもましななにかに至る方法です。相手をやり込めるとかいうような、どうでもいい話はここでは無視しています(議論におけるオフェンスとディフェンスは、ディフェンス側が自分の知識と考え方が妥当であることを示すとこが目的なので、自分が自分のそれらを守れることを示せばいい。相手をやり込めるのとは全くの別物です)。

現在の教育現場では、この「どのように考えるのか」、およびそれを訓練するための対話が、あまりにも軽視されているように思えます。「何を知っているのか」と「どのように考えるのか」のどちらが人間の知性にとってより上位であるかという話ではありません。どちらも等しく必要です。ですが、現在の教育現場では「どのように考えるのか」の訓練があまりにも軽視されています。

で、やっと最近の教育あたりにつての話です。「反転授業」(に限りませんが)によるビデオ学習、デジタル教材による自学自習。まぁ「何を知っているのか」、つまり知っていることを増やすにはそれでも構わないと思います。ただ、そこ止まりでしょう。反転授業では、学校では学習が進んでいる生徒がそうでない生徒に教えるというようなことも想定されているようです。ですが、それは「何を言っているのか」の伝播に過ぎません。ですが、世の中、デジタル教材バンザイ、反転授業バンザイ、となっているように思えます。まぁ反転授業については、学校で教員と議論すればいいだけの話ですし、わざわざ反転授業という名前をつけなくても、家庭での学習って必要だよねということを言っているだけに過ぎないわけですが。反転授業あたりだと講義ビデオの配信なんてのもあります。対話の理想的な形としては、疑問に思うことがあった時に即座に質問できるというものを挙げられます。ビデオ配信では誰も答えてくれませんが。もっとも、タブレットでテレビ電話みたいなことやその他の方法で学校にせよ塾にせよ好きな時に対話はできます。まぁ話すだけでよければですが。「どのように考えるのか」を訓練することが念頭にない人たちに、どうやってそのあたりの指導をさせるのか? 答えは単純で、「無理、不可能」。

ともかく、最近教育業界で言われていることは、結局のところ「何を知っているのか」に関するものに偏っています。あるいは、教育とは、生徒の目の間にデータを流せばそれでいいという考えなのかも知れません。ですが、それは教育の、一側面しか見ていません。だからこそ、マヌケなデジタル教材とかが囃し立てられるのでしょうが。(私はデジタル教材には反対していません。現状のものは使い物にならないと言っているのみです。少なくtもアラン・ケイのDynabookくらいのものは実装して来ないと話にならないと考えています。)

名付けの癖

昔、同人で仲間内でTRPGのルールと世界を作っていました。その世界のネーミングに癖があるので、思い出しつつちょっと書いてみます。

そこそこ未来世界サプリメント: Methuselah
ファンタジーサプリメン: Mursylarm (これは友人が作った同人の世界を移植したので、今回は別カウント)
Pre-cyberpunkサプリメント: Utopia
Steam & Horrorサプリメント: 祭 (まつり)
遠未来世界サプリメント: ForeRunner

Mursylarm以外の4つが対象です。いずれも書かれていない存在がタイトルになっています。

ForeRunnerは、銀河規模の先史文明の遺跡や遺物がある程度の設定が書いてあるだけだったと思います。ですが、作中ではそれはあくまで先史文明。プレイヤーキャラクターの生きている時代にはあまり影響を与えていません。意図としては、遊ぶ人たちで先史文明を形作って欲しいと思ったネーミングです。

祭は、関東大震災前後を舞台にしています。震災の前に狂舞とか盛り込んで、震災前後そのものが大きな祭であるという雰囲気を読み取って欲しかったネーミングです。

Utopiaは、そもそもCyberpunk関係ということで、その世界はユートピアではない。皮肉でもあり、人間が追い求めたユートピアはこのようなものがありうるというものでもあり、ユートピアは求めても得られないというものでもあり。

Methuselahは、全面戦争あたりで一回文明が滅びたが、知識を保存している組織があり、また戦争をなんとか生き残った機器もあるという世界。ここでは、なにをMethuselahと呼ぶのかは書いていません。知識を保存している組織かもしれない。知識を保存しようという意思そのものかもしれない。あるいは知識そのものかもしれない。生き延びた機器の方かもしれない。あるいは生き延びた機器の中に保存された複製人格や人工知能かもしれない。

というわけで、作中にないもの、そして遊ぶ人たちが追い求めたり、決めたりして欲しいものの名前をつけています。名前そのものは必ずしも不明確なものではないと思います。ですが、普通に考えると中身を象徴すらしていないのではないかと思います。私に制限なしに名前をつけさせるとこういう感じになります。

ついでに。Methuselahは、製作途中で「黙示録3174年」が復刊され、「ほとんど基本設定が同じだよorz」となりました。また、作中、ナノマシンを水に混ぜて目薬のように目に入れると、視神経のところをたどってナノマシンが脳に到達。ナノマシンは材料は現地調達で、脳と外部との接続ポートなどを形成するという設定があります(そこまで作中に書いていたかは忘れましたが)。これが、制作後には、「28日後」だと目に入った血液から感染とかあるじゃないですか。これも「orz」。というか28日後の方が後だから構わないんだけど。

祭は、製作中に「大正時代の資料がないよorz」と思っていたら、たまたまいくつも大正時代の資料や本が刊行されたりしてラッキーでした。なお、ここで「妖(あやし)」という呼び方を導入しています。

えーと、ちょい検索。見ても面白くないと思うけど、どうせだからリンクを貼っておきます。そのうちにサイトの再構築をしようと思っているので、その時にはリンク先を変えると思います。あるいは、リンク先の所は変えず、改訂ページを作るかもしれません。

How sweet to be an idiot

"How sweet to be an idiot"ですが、この"sweet"って日本語訳するの難しいなぁ。アメリカ公演のビデオの字幕だと、とりあえず「素晴らしい」ってなってた気がする。「バカであることは素晴らしい」てな感じだったと思うけど。「素晴らしい」… うーん、多分そうなんだと思うけど、ニュアンスとしてこう何と言うか、「楽しい」みたいな感じもあるような気がするし、「気楽」という感じもあるような気がするし、"sweet"とは逆の意味(?)になるけど、歌詞の他の部分も見ると「辛い」みたいなニュアンスもあるような気がするし。"an"がついているから、個人としての感覚なんじゃなかろうかと思うので、個人の感覚とに対して「素晴らしい」という、外から見たっぽい感じは少し違う気もするし。"How sweet to be an idiot"だけでも、「訳せ」と言われたら、私はお手上げになりそうな気がする。「とりあえず訳せ」なら、やはり「素晴らしい」になるような気がするけど。

High Landerの"Who wants to live forever"も、High Landerの中身を観ていると、一般論としての「不死を誰が望むだろう?」というのとは少し違う。大昔のエピソードで、殺されたはずなのに蘇ったために部族か氏族から追い出されるとか、結婚したものの自分は不老であるのに妻は老いて死ぬとか、二次大戦中のエピソードで助けた娘がいるのですが、その娘とずっと暮らしていて、その少女が映画内の現在においては初老というか老年期くらいになっていて、ギャザリングのために主人公がその女性と別れるとか、そういうのが描かれている(あれ?宿敵に殺された女性が居たっけ?いや、あのエピソードだとショーン・コネリーが死んでたのか?)。なので、主人公の個人の思いとしての「不死を誰が望むだろう?」という気持ちとリンクしたり。映画の最後では、ある女性と結ばれるのだが、果たしてどうなったのか。(2作めで微妙に触れられてた気がするけど、私個人の気持ちとしては2作めは無いものと考えたい。)

んー、そこのところはハインラインの「メトセラの子ら」(これは長命種のシリーズの一作品)にあった、主人公が瀕死の重傷を負うものの、「死なせるわけにはいかないのよ」みたいな場面も連想したり。このシリーズの長命種は、そういう不思議な人種がもともと居たわけではなく、優生学的な交配によって創りだされた人種というか一族ですけど。

もう一つ印象に残ってる、不老不死ネタの小説があるんだけど、タイトルを思い出せない。

ただ、どれも、一般論としての「不老不死を誰が望むか」というというところで済ませていない。

なので、それらの作品が重なりあって連想されてると、"Who wants to live forever"がますます心に染みる。

関係ないけど、「黙示録3174年」とか「宇宙の孤児」とか、知識が失われて云々というのもいろいろ深いものがある。

まぁ、SFは最近だと「少し不思議」とか言われているけど、生ぬるい感じがしますね。大昔ですけど、「SFとはScience Fictionではない。Speculative Fictionである」という話がありました。日本では(日本に限らないか)根付かなかったように思いますが、思考する物語はそのあたりを主張していたような気がする。

パルプフィクションの時代に、推理小説の枠組みをSFに持ち込んだ人(あるいは人たち)がいて、H.G.ウェルズやジュール・ベルヌ、メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン 現代のプロメテウス」にあったSpeculativeな要素が死に絶えたに等しいと言っていいくらいの状況があった(頑張っていた人は居た)。ただ、推理小説の枠組みを導入したことによってSFは大幅な劣化を余儀なくされ、SF読み自身もかなり劣化した(というか、劣化したSFなら読めるというSF読みが大幅に増えた)。大雑把な話、普通のSFは「実は」というのはあまり使われない(いや、使われるけど、そこが山場というのはかなり少なくなってる。あえて言うなら、「最初に全てを提示する。さてそこで何が起こるか?」というのがSFだと思えばいい。もっとも提示されるもののうち、状況は特殊なものが多い)。そこからSpeculativeな面を復活させるのはかなり大変だったとは聞いている。

ただ、日本だとSFの巨匠は居たし、居るのに、どういうわけかいまいちSpeculativeな方面が盛り上がっていない。SpeculativeとかハードSFというのが日本には根付きにくいのだろうか。

村上春樹氏を誹謗するつもりはないが、中身の無さを面白いと感じる人が多いらしいという状況を鑑みると、科学の知識が必要・どこまでが現時点での仮説であり、どこからが虚構なのかの区別がつく・著者が提示する議論を理解しながら読むということが必要なSFは、日本では受けないんだろうなぁと思う。

話が発散したけど、歌の歌詞でも映画でも小説でもマンガでも、読んだりしながら他の作品との関連付けをしながら読むと、面白さが倍増とかもっと面白くなるという話だということで。

考え方

これは今に始まったことではない。人が物を考えるとき、「確固たる根拠なるものがあり、世の中や現象や人々はそれに従う」という前提で考えるようだ。まぁ、見た限りそのように思える。もっとも、その「確固たる根拠」が、人が恣意的に決めたものであったりするのは、最悪級のマヌケだ。

我々が世界を見る場合、「確固たるものはない」という前提で見る。ではどのように見るかというと、ある体系内における要素の間における違いを見る。例えば、要素Aがあったとして、上述の人の場合、要素Aについての確固たる定義があると考えるだろう。だが我々はそうは考えない。要素Aについての確固たる定義など存在しない。要素Aを定義するには、要素B、要素C…との違いによってのみ可能だと考える。

もちろん、ではそのような違いをもたらしているのは何なのか、それについては当然考える。だが、その「もたらしているもの」自体も確固たる根拠ではない。観察している体系内に現れる要素が、体系の基盤に影響を与えるからだ。

この辺りのことも、私がやってきたようなことでは叩き込まれる。故に、確固たるものがあると考えている人とは話にならない。なので、「これこれと決まっているから」と言うマヌケは、猿だと思うことにしている。まぁ猿の方が賢いだろうけど。

マヌケはなぜマヌケなのか

デジタル教材を推進している人が、「日本では未だにFlashを使った教材が云々で遅れてる」とかtweetしたり。それは、その人がデジタル教材を推進しているなら、その人の活動としてその点は既に改善されていなければいけないこと。

婚学といって、(文化)人類学でさんざん研究されていることを無視して、金を巻き上げようと頑張りだしたり(無視するというより知らないのかもしれない)。

なんで人間はこんなに間抜けなのか?

とは言いつつも、間抜けにはいいまぬけと話にならないマヌケがいる。まぬけは、むしろ居てくれないと困る。娯楽や文化の進歩がなくなるかもしれない。だけど、マヌケは違う。

先日読んだ哲学史の本の中で、誰かの考え方として、「多くの人間は、『このようにしろ』というものに隷属している状態の方が幸福なのだ」というようなことが書いてあった。まぬけは、そういうものに隷属しないかなり自由な人たちだ。尊敬する。だが、そのように書かれているような人たちはマヌケの方だろう。だが、哲学史に出てくるような話に、「隷属している状態の方が幸福」とまで言われてしまうのはなぜなんだろう。哲学は、まぁ行ったり来たりしてはいるけど、とりあえず人間には理性があると考えていると思う。そういう人たちが、なぜ人類はマヌケなのだと言うのだろうか?

ここで言っているマヌケは、分かると思うが、知能とかIQとは関係がない。知能とかは、一応正規分布になると仮定されている。マヌケかどうかも正規分布に従うとすると、なぜ哲学者にマヌケと言われてしまうのかが説明できない。つまり、マヌケかどうかは正規分布にはならないということなのだろう。

Monty Pythonのネタで、"How sweet to be an idiot"という歌がある。タイトルは知らない。そういう歌詞の曲だ。この歌は、英国的なブラックなネタであり、知能的な面でのidiotを歌っている。だが、本当に知能面でのidiotを歌っているのだろうか。もしかしたらマヌケを歌っているのかもしれない。

哲学者にしてもMonty Pythonにしても、「自分たちも含めて、みんな間抜けだ」と言っているのかもしれない。

追記(2013-Nov-23 19:37) ==== BEGIN
"How sweet to be an idiot"がYouTubeにありました。
こちらは、多分いつだっったかアメリカの屋外劇場での講演の時のだと思う。そのビデオを持っているので、こんんな感じだった気がする。
こちらは何なんだろ?ちょっと分からない。
==== END
追記(2013-Nov-24 13:10) ==== BEGIN
"How sweet to be an idiot"の歌詞が表示されるバージョンもありました。

考えてみると、「アルジャーノンに花束を」がこの辺りを深く考察していますね。「アルジャーノンに花束を」の原題は、"Flowers for Algernon"。このFlowersの訳が難しいなぁ。作品の中身からは、邦訳からも分かるのですが、花束と言われて多分普通に思い描くものではないことが分かります。もっと質素なものを多分言っている。花の咲いた野草を2,3本でもいい、というより多分そちらのイメージの方があっているのかもしれない。あ、そこも具体的に書かれてたかもしれないけど。
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追記(2013-Nov-24 13:20) ==== BEGIN
歌詞が表示されるバージョンで見えますが、"And dip my brain in joy"という歌詞があります。これアメリカ公演のビデオの字幕だと、「僕の頭はパッパラパー」てな訳がついてた気がする。

Monty Pythonに限らず、普通の映画でもジョークなんかあるわけですが、翻訳者はその辺りでかなり悩むんだろうなぁ。日本語に対応させて、かつジョークになっていないといけないわけで。これが本だったら、脚注的に説明もできるけど。
==== END

微妙なこと思いついた

昨日から、「あー、何か思いつきそう」という感じはあったのですが。まぁ、経験上、そう感じるときに思いつくのは、それほどどうしたものでもない。ですが、昼食時に出てきました。

感想としては、「あー、そっちの方が出てきちゃったか」というところでしょうか。なんと言うか、手前側のアイディアを思いついてほしかったのですが、仮の最終目標側についての思い付きでした。

とは言え、「なるほどねー。確かにそうすると考えやすくなるかもしれない」というもの。とりあえずノートにメモ。

「手前側についてのアイディアをよろしく」と無意識に対してお願いしておきました。

昨日のエントリ

昨日のエントリについて。

えー、実家と電話をしてまして、結構まじめな話をしながら昨日のエントリを書きました(ヘッドセットを使ってたので両手は空いてましたので)。

一文めが「ちょっとおかしいなぁ」というのと、これは修正しましたが、「映画が」と書こうとして「絵ーが」と書いてしまったのが目立つミスかなぁと思います。他にもあるかもしれませんけど。

さすがに、聞く&考える&話すのと、考える&書くのを一緒にやるのは結構面倒かも。時分割ならどうにでもなると思うけど、実際に並行してやるのはちょい無理があったと思う。

なんで並行してやろうと思ったのか。理由はないというか、まじめ過ぎる話なので手が余ったというか、まじめすぎる話なので気を逸らしたかったというか。

何も見つからない

2013-Nov-18にEテレで放送したTEDのプレゼン内にて、Epagogixという会社があります。興味を惹かれたので、googleで検索しました。

Epagogixのサイト内に、各メディアでの紹介があったり、どっかのセミナーでのスピーチがあります。スピーチは1時間くらいかけて聞きましたが。

他のサイトも覗いてみました。

しかし、重要な情報がなにも見つかりません。あるいは少なくとも見つかりにくい。

会社の性質を考えると、いろいろと公開するわけにも行かないでしょうから、予想どおりではあるのですが。でも1時間のスピーチを聞いて、瑣末なことではあるけど少しわかったこともある。

今回は、この会社の存在と、何をやっているのかが少しだけわかったことでよしとするしかない。あと、こちらの進む方向性とは別方向だということは確認できたとおもう。Epagogixは収益の予測に特化してるみたい。

Hollywoodの映画作成方法にはビートシートメソッドというのが多く使われているのはよく知られているとおり。ビートシートメソッド自体は、同時代あるいはそれより随分前の物語分析をベースに作られたものだと思う。その物語分析によって得られたモデルがどれだけ強力なのかということを、今でも示し続けている(質においてもそうだと思いたいし、量についてもこのメソッドは貢献しているだろう)。とは言え、ビートシートメソッドのお陰で、「ハリウッド映画はどれも似たり寄ったり」という印象を受ける、あるいは受ける方が居るのも確か。

Epagogixは随時評価アルゴリズムの更新を行なっているとのことだが、ビートシートメソッドと同じようなことが起こるかもしれない。評価アルゴリズムも、たとえば興行地域ごと、ジャンルごとなどに用意すれば、すこし状況は少し違ってくるかもしれないけど。ただ、だとしても世間の求めるものが急激に変わったり、あるいは評価アルゴリズムがどういうわけか世間の評価とずれてしまうということも起きうると思います。そうなった場合、どういう絵一映画(2013-Nov-21 09:00 修正:タイポ(?)を修正しました)が作られるのか、映画ファンはどういう行動をとるのか。

そういう状況を見てみたい気もしますが、アルゴリズムの破綻やアルゴリズム同士の衝突によって、どういう意味においても面白いと思えない映画ばかりが上映されるようなことになったら辛いなぁ。

ハイランダー

近所のレンタルDVD店をうろついていた所、ハイランダー・シリーズのDVDを発見。ハイランダーについてはリンク先をご覧ください。

ハイランダーには旧シリーズの4作と、2007年(?)に出た新しいのがあった(TVシリーズもあったらしい)。レンタルDVD店には4作めと、新しいものの、計2本があった。旧シリーズの4作目は、実は見ていない。というか、2作めと3作めが酷すぎた。なので4作めは見ていなかった。

もっとも、1作めが傑作だったかというと、そうでもない。ショーン・コネリーが出ていたり、ロケでそれなりにお金かかっただろうなとは思うけど。面白いけど、一般に話題になるような作品でもなかった。むしろ、2作めと3作めがあまりに酷かったので、1作めが面白く思えると言っていいのかもしれない。2作めは、「そんな設定しちゃったら、1作めとおもいっきり矛盾してるだろ」という後付設定が入ったり。その後付設定も、「どこかで見かけたなぁ」というものだったり。なので、3作めがなぜ作れたのかが謎なくらい。3作めは、「そういうの、求めてないから」という物だったし。新作が出たのを知った時には、本当に不思議だった。もっとも新作も判断に迷う出来だと思いますが。

たまたまというのもあるけど、そんなわけで4作めは観ていなかった。今日、パッケージの裏書を読んだら、4作めは原点回帰していたのかもしれない。そのうちに観てみようと思う。

というわけで、考えてみるとアメリカの映画事情は謎だらけです。旧シリーズで2作めが作れたのも不思議だし、3作めは「誰が言い出したんだ」というレベル。そこを乗り越えて4作めが作れるというのは、世界の7不思議に準じるくらいの不思議だと思う(もっとも、「もうネタとしてやってるだろ」というのも存在しますが)。この手の映画は、好きな人は好きなので、新作が作られたのは、何となく分かるような気もするけど。

まぁともかく、ハイランダーの旧シリーズの1作めは結構好きです。

追記(2013-Nov-10 00:13) ==== BEGIN
エントリを書くために、ハイランダーの1作めを思い出したからだろうか。ステキな金縛りを観ながらも、ずっとハイランダーの1作めで使われてた、"Who wants to live forever..." という歌詞がある歌が脳内リピートしてた。YouTubeにありましたのでリンク貼っときます。
==== END
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