2014年01月

神々の沈黙 ―意識の誕生と文明の興亡―

,ジュリアン・ジェインズ, 訳 柴田裕之, 紀伊國屋書店, 2005.

まだ途中ですけど。元が古い本みたいなので、ちょっとナイーブかなと思うところもあります。

人は数千年前前(まだ途中なので、もっと最近までなのかもしれません)まで「意識」を持っていなかったという論です。その説明として<二分心>というものを持ち出し、内なる他者の「声」(思いつきとかではなく聞こていたと著者は推測している)が、神話における神の声だと論を勧めます。

じゃぁ、なぜ今は意識を持っていて、神の声を持っていないのか? そこはまだ読んでいません。ただ、王が亡くなっても王の意思・遺志といえるようなものが、内なる他者の声にも入ってきていたのではないかとは主張されています。そうすると、本当に現代人が意識を持っていると言えるのかはかなり疑問ではあります。神の声の代わりに規則や役職での命令に従えばいいとか、言う側なら従わねばならないとか。実のところほとんど変わっていないのではないかと思えます。

 あと、シャーマンの類は、今で言う統合失調症の人がなっていたとう説もあったと思います。だけどそれはちょっと無理があるかなとも思います。継続の面でも、行動や役割の面でも。その点、<二分心>だと、納得できるかもしれません。

最悪のタイトル

『子どもたちは電子羊の夢を見るか?2. デジタルとオンラインで変わる明日の教育』という電子書籍が出るようです。

本の中身を読む必要すらないと確信します。それくらい最悪なタイトルです。

タイトルの元ネタは、当然「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」でしょう。原題をそのまま翻訳したタイトルなので、このまま話を続けられます。実際の解題は、フィリップ・K.・ディックに聞いてください。リンク先のwikipediaでも充分に書いてあると思います。

このタイトルは「アンドロイド」に対して「電気羊」を持ってきているから意味を持ちます。「アンドロイド」に対して「電気羊」を持ってきているからこそ、「お前達(アンドロイド)は何者だ? そして我々(人間)は何者だ?」ということを、そして「彼らと我々は違うのか、同じなのか?」ということをタイトルだけで問うています。作の全てがタイトルに凝縮されています。

では、出版された電子書書籍のように「子どもたち」に対して「電子羊」を持ってきたらどうなるでしょう。タイトルとして、というよりも言語として意味を成しません。少なくともフィリップ・K.・ディックの作のタイトルが元ネタと思えるようなタイトルにすることにより、ディックの作を読んだことがある人はそれを思い出し、関連や対応を見出そうとするでしょう。しかし、そういう人にとっては、意味を成さないタイトルでしかありません。むしろ、「あってはならないタイトル」なのです。言わば「子どもたちは、彼ら(アンドロイドとか。ともかく人類に対しての他者)であるのだろう」と、このタイトルは言っているようにしか思えないのです(私だけなのかもしれませんが)。

これが創作のタイトルなら構いません。ですが、そうではない。だからこそ、なおのこと「あってはならないタイトル」です。

電子書籍の作者は、おそらくディックの作を読んだことすらないと思います。あるいはもっと悪い場合としては、読んだけれども理解できなかったのかもしれません。

こういう人が教育のデジタル化を推しているのだとしたら、まず間違いなくおかしな方向に進みます。そう言えるほど、「あってはならないタイトル」なのです。

TRICK ―劇場版― ラストステージ

, 仲間由紀恵,  阿部寛, 堤 幸彦監督, 東宝・テレビ朝日, 2014.

結構面白かったかも。

おっかさんの存在感というかなんというかが最初のシリーズ(に限らないけど)に戻った感じがあったり、あとは熟成された(?)ベタなのがあったり。

ただ、最後のシーンがちょっと気になる。昔、横長画面で撮ってたとも思えないし。撮り直したのか、それともうまく横長になるように切り出せたのか。

そう言えば脚本はいつ書かれたり、撮影もいつ頃やってたんだろ? 先ごろ観測された例だと、どうのこうの手を出しようがないからこういうネタにしたのかな。
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