2014年03月

異星人の手がかりがなぜみつからないのか?

SFに限らず、SETIでも、大前提として「生物は知性を持つように進化する」というものを持っているのかもしれません。最近のSFでは、他星系に出かけたとしても、あくまで人間が植民し、人間の世界の一部になるものが多いように思います。昔のSFだったら異星人がいるのはあたりまえでした。

さて、あちこちに水が存在することは確認されています。水があれば、地球型(に近い)の生命がある可能性は検討に値するかもしれません。あるいは地球型とは違う異星人もあり得るのであれば、宇宙人の総数(種類の)はもっと増えるはずです。ですが、手がかりが見つからない。

それを考えると、宇宙は生命で満ち溢れているかもしれないが、知性では満ち溢れてはいないということなのかもしれない。

恐竜の類は1億年とか繁栄したが、文明を作ったという痕跡はない。人間は100万年とかその辺りで現在に辿り着いているのにだ。1億年と比べるなら、1000万年で辿り着いたと言っても構わないだろう。ということは、「生物は知性を持つように進化する」という大前提が、誤っているのかもしれない。

今の人類の文明をもたらしたものが何かといえば、それは言葉だと思う。言葉により、考えを記録し、蓄積し、伝達することができる。特に文字だ。もちろん現在でも言葉は持つが文字は持たないという民族・部族も居る。だが、全体として数千年前から文字を使っている。

文字を作るのが難しいとは思えないので(漢字の体型を組み立てるのはかなり難しそうだが)、その前の段階、つまり言葉を持っているのかどうかが重要なのではないのかと思う。

言い方を変えると、言葉を使って考えるかどうかということだ。恐竜たちはそうはならなかったようだ。あんなに繁栄したのに。

さて、宇宙で手がかりが見当たらないのは、他の種族はずっと先に言っているか、他の種族はまだまだ遅れている(いずれも電波の伝播に時間が必要なので、問題はややこしくなるが)と考えるのが妥当だと思う。だがそれは妥当なのだろうか?

ドレイクの方程式において関係しそうな項はこれだ。「発生した生命が知的生命体にまで進化する割合」の項fi=0.01 (1%)で推測されていた。これを、仮に「発生した生命が言語を操るまでに進化する割合」と考えた場合どうなるのだろう? この場合、「知性」と「言語」というのは、大まかには同じような意味で考えていいと思う。

だが、どちらにせよ十分な知性体、十分な言語使用者が現れなければ、この条件も、この次の条件をみたすことはない。その意味では0.01でも大きすぎる推定値なのかもしれない。

なお、中世のヨーロッパには暗黒時代があった。ルネッサンスの前の時代だ。知性体は言葉を使えても、このように嵌り込むことがあるということだ。言葉を持っていても、社会の要請により限られた範囲に限られてしまうのだ。そのような嵌り込みや場合によっては後退はどの程度起こるのだろう? 場合によってはそれは非常に長いこともありえるのだろう。そういう世界は、エネルギーや材料の枯渇というのは考えなくて良いだろう。もともと使用料が少ないと思うので。

そうすると、まとめてみる。
  • 生物が言葉を使うようになるまでに進化する可能性は低い
  • 生物が言葉を使えるようになってからの期間に対して、言語による言語的活動が抑圧される期間が長い
fiをこのように分けて考えてみる必要があるのかも知れない。

SFについての良い論考

「宇宙SF」の現在――あるいはそのようなジャンルが今日果たして成立しうるのかどうか、について : 稲葉振一郎 / 社会哲学


良い論考です。


宇宙SF(宇宙を舞台としたSF)が衰退したのはなぜかと論考しています。大雑把にはこんな感じかと。

  • SETIなどの観測における否定的状況(なぜか知性体の手がかりが見当たらない)
  • 物理学の発展がもたらした技術的限界という展望(超光速航行の困難さ(不可能かどうかはまだまだ分からないと信じたい)、そして宇宙のあまりの広さ)
  • 異星以外の異世界というものの認識

ただ、どうしても最後に述べる疑問に私は行き着いてしまいます。


細かい所で気になる点がないわけでもありません。レンズマンを持ちだしていますが、果たしてそれが適切なのかどうか。レンズマンがというわけではありませんが、「それを宇宙を舞台にしてやる理由があるの?」と言われてしまうと困るという作品があることも確かです。


また、記事を読んでもらうだけでもわかると思いますが、通時的に見ても共時的に見てもSFはパラダイムに結構断絶があるジャンルです。大雑把には、「SFってどんなジャンルかを定義しろ」と言われると非常に困るという感じです。


も ちろん、かつては宇宙がよく描かれており、今は少なくとも割合としては減っていると思います。ですが、実のところそこは問題ではないと思います。必要性、 可能性という話でもないと思います。重要なのはパラダイム、あるいは舞台を開拓し続けているという事ではないのかと思います。開拓し続けているといって も、新しい場所が開拓されたら元の場所を捨てるわけではありません。開拓され、受け継がれ、何か面白いことがあれば再度訪れることができる所がある。それ が重要なのだと思います。


さらに言えば、SFが他の文学と異なる点として、「誰かが開拓した場所を、他の人も利用 するのが普通」という点があります。サイバーパンクは誰かに特有の世界、あるいはパラダイムではありません。トールキンのミドルアース、ル=グウィンの アースシーを、他の作者が書くことができるでしょうか(狭義のファンタジーの内部がどうなっているかという話になりますので、ここはちょっと書き方が難し いところですが)? 出来ないとは言いませんが、それなりの違和感があると思います。あるいは、クトゥルフ神話と比べることもできるでしょう。クトゥルフ神話はラヴクラフト以 外にも多くの作家が使っています。ですが、それはSFと同じ状況でしょうか? 言い切るのは若干ためらいますが、違うように思います。例えて言うなら、SFはその中に、狭義のファンタジーやクトゥルフ神話という舞台を作り続けている ようなものかもしれません。


ですから、SFが宇宙を捨てない限り、あるいは失わない限り、「宇宙SF」という視点 で作品の多寡を見ることが果たして妥当なのかという疑問が生まれてしまうのです。そこで、この記事についての疑問として、1. 現実の限界 2. SFの限界という話 3. 読者が望 むものかという話、それらがこの記事では混同されているように思うのです。あと、単純な話として、舞台の数が増えれば、何らかの流行りがなければある特定 の舞台が占める割合は当然減るだろうとも思います。


ですが、面白い論考です。

ROBOCOP

, Joel Kinnaman, 監督 Jose Padilha, Columbia pictures (2014).

んー。

前シリーズの1作め(だったと思う)。その最後のシーンにこんなのがあったような気がします。

「あなたの名前は?」

「マーフィー」

(違ってるかもしれません。)

今回のROBOCOPを観ると、たったこれだけの会話にものすごい重さを感じます。

前シリーズでは描かれていなかった(と思う)、製作過程(?)において人間性が次第に失われていく過程が、今作では描かれています。まぁ前シリーズだと、脳も全部は残ってなかったって設定だった気がしますが。

そうそう、映像的にもしかしたらちょっと心の準備をして見る方がいいかもしれない場面があります。これも前シリーズにはなかった場面だと思います。

おっと、そうだ。あれだけ視覚にデータを重ねると、さすがにバイクの運転とかに支障がでると思う。こう、なんというか、額の前のあたりに見える感じの方が良いような気がする。映像とするには少し難しいか、分かり難くなりそうなので仕方ないと思いますが。
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