2014年05月

エイリアシング

計算機関係だと、フォントのアンチエイリアシングなんて話がありますが。それとは別物の話。アルファベットのフォントの設計の図なんか、実は計算機が現れるより前の大昔にも同じような書き方をして説明してたりします。むしろ逆に、そういう伝統の上にフォントの記述方法が定められたのかもしれませんが。

自動車のCMとか、映画の場面とかで、車輪が回り始めるあたりは回っている方向に映るものの、ある所で逆に回転しているように映ったりします。これ、動画を撮る/写す周波数が追いつかなくなり、エイリアシングが起きているからです。というか、そういうのをエイリアシングと呼びます。

同じようなことが音声でも起こります。最近は少なくなったかなと思いますが、YouTubeでなんか変なキンキンした音が聞こえることがあります。これ、エイリアシングが起きているからです。

信号をサンプリングするには、サンプリングする周波数の2倍のサンプリング周波数が必要だと言われます。この2倍のサンプリング周波数をナイキスト周波数と呼びます。ここで、サンプリングしたい周波数の2倍のサンプリング周波数でサンプリングすればOKと思われることがあります。これ、勘違いです。

信号の周波数は置いといて、0radから2πradでのsinでも考えてみましょう。信号としては0radから2πradで1周期、周波数はx Hzとしましょう。その2倍のサンプリング周波数というのは、例えば0radとπradの時にサンプリングをするわけです。x Hzの信号に大して、2x回のサンプリングをしています。周期としては半分、周波数としては2倍になります。で、(1/2)π radと、(3/2)π radでサンプリングすれば、sin波そのものは復元できませんが、それなりに近いものを復元できます。ですが、2倍のサンプリング周波数と言っても、0 radとπ radでサンプリングしたら、0の並びしかサンプリングできません。ナイキスト周波数は、「運が良ければ、近いものを復元できる」あるいは、「それくらいないとどうあがこうと復元のしようがない」という条件です。

で、まぁこの辺りが問題になります。動画とかで低周波数の信号にエンコードするとき、そのエンコードが対応しているものを超えた周波数が含まれているとエイリアシングが起こり、キンキンいうようなおかしな音声が入ることになります。 どうしたらいいかというと、いまどきの編集ソフトは結構自動でやってくれているんじゃないかと思ったりもしますが、適切なローパスフィルタを一回とおしておけばエイリアシングは防げます。

ところで、「ナイキスト周波数でサンプリングしても復元できない」と書きました。ではどうするかというと、「その数倍のサンプリング周波数は最低限必要」ということになります。

えー、CDのサンプリング周波数は44.1kHz。人間の可聴域は20Hz〜20kHz。まぁ上の方は、成人するあたりからガンガン下がっていきますが。子供のころ、親が庭仕事するときに使っていたモスキート音をだす機械がありまして、「うるせぇ」と思ったものですが、今はもうさっぱりです。それはともかく、理屈としては、CDは人間の可聴域をカバーする規格になっていません。カバーする必要もないとも言えますが。それでもより高周波を復元する研究なんかもあります。

動画とか音楽とかを自由に配信できる世の中になったので、いまさらながらちょっと気になったので。

映像に関してのUIあるいはデヴァイス

人 間の網膜には錐体というRGBに対応する視覚細胞と、明暗に対応する桿体細胞があります。視野の中心部には錐体細胞が馬鹿げた密度で配置されています。そ の周辺では錐体細胞は減り、桿体細胞がそれなりに多く配置されています。で、何を言いたいかというと、実のところ人間が「自分の目は解像度高い」と思って いるのは間違いだとことです。それが言えるのは視野の中心部のみ。周りはボケボケにしか写っていません。

では、自分の視野についてどうして「高解像度」と思っているのかというと、おそらく理由は2つあります:

  • 目(視野なり視線なり)を動かして(目のサッカード運動(?)というらしいです)、その結果得られたものを合成(?)している
  • その上で、「高解像度」というのはただの勘違い(周囲はこうなってる気がするというラベルとかタグとかが貼り付けられてる感じかも)

なので、普段は自分の視覚の特性に気がつかない。

では、これを逆手に取ったUIは作れないだろうか。そう考えると、実は「今、編集している部分の数行だけ大きく表示して、その前後は小さく表示する」というエディタが昔にはあったりします。

サッカード運動の最中に提示している情報を切り替えても、(当然ものによりますが)気づかれないとか(切り替わっていることを知覚してはいるが、情報の洪水に対してそれを無視する戦略をとっているらしい)。文字列とか本とかを読んでいると、気づきにくいらしいです。

そうすると、上のエディタの例だけではなく、google glassあたりにおいて、目が動くのを検知して、高解像度の部分を変えたり、提示情報を変えたりすることで、表示領域を有効利用できるんじゃないかという気がします。

ちょっと処理が面倒になると思いますが、小さいカードUIよりは、実質的に多少なりとも広い表示領域を提供できるようになるような気がします。余計な計算が入ることになるので、そんなことはやらないというのが結局よろしいのかもしれませんが。

ロンリのちから―逆さまのロンリ―

逆、裏、対偶とやっていくんでしょうかね?

最後のアリスの小ネタ劇場にて、アリスが言っていました:

私は思ったことを言いたいんじゃなくて、言ったことを思ったの

あー、これ、因果関係として前半は正しく感じ、後半はおかしいと思われるかもしれません。

ですが、神経生理学(や神経心理学)や、それ以外にも普通に言語生成だと「むしろ後半じゃね?」という可能性が指摘されています。

何をどう言うかのプランを立てることがないわけではないでしょう。ですが、少なくとも日常におけるほとんどの発話や会話においてプランを立てることを支配する管理者はいません。

デ カルト的な心身二元論によると、脳内の松果体を通じて肉体と魂が繋がっているとされていました。動物に松果体があるのかは知りませんが、人間には魂がある が動物にはないとも言っていました。まぁそれだけ「考える」ってのは人間の特権的な行為(?)であり、また魂を想定しなければならないほど「考えるってな によ」という疑問は答えが分からないということではありますが。なおこの魂の有無は西洋の伝統的な動物感でもあります。動物には魂はない。神が人間に与え たもうた生物機械である。ゆえにどう扱おうが人間の勝手という考えが根底に今も残っています。某グリーンな過激団体などは、むしろその反動でしょう。動物 との付き合い方や距離の取り方が不器用なのでしょう。

デカルトの言う魂は、「カルテジアン劇場の観客」、「脳の中 の小人」とも言えます。これは人間の認識に関する能力を全てそこに押し込めます。そうすると無限後退が始まるのであまりうれしくない想定です。ですが分か り易い喩えではあります。あまりに分かり易すぎて危険なほどです。なぜなら、そんな小人や特権的な脳の部位は無いので。(なお、「ホムンクルス」という言 葉が小人と同じような意味で使われる場合もないではありませんが、通常は特定機能を遂行する単位程度の意味です。「エージェント」という言葉も使われます が、同じ意味と思ってもらって構いません。前頭葉が特権的部位ではないかという話もありますが、それはある意味都市伝説です。前頭葉が全てを監督してなど いません。)

というわけで、「ナンセンスを意図したものが、ナンセンスになっていない」という事例になってしまっています。

超能力とか魔法とか

サイエンスZERO(再放送だったのかな?)で超能力っぽいものをやってた。

こういうのの研究は、そのものを対象にする研究と、そういうものがどうしてあると思われているのかという研究がある。後者の場合、実際にそれがあるかどうかはどうでもいい。あると思われていること、あるいは思われていたことあたりが問題となる。

例えばの話、魔術とか、陰陽道とか、そういうのがどういうことから発生したのかとか、どういう感じで体系化され、おまけに現実に対して影響を与えうるものとしてシステム化されたのか。ここのところが実に興味深い。おまけに、実はそこのところを分析する手法も現代は手に入れている。

とは言え、これは膨大な歴史的資料を調べて、現在もどうなのかというのも調べないといけない。誰かがやっているとは思うけど、かなり大変そう。

で、これに限らないけど、実際にそれがあるかどうかはどうでもいいという研究はいろいろと立てられる。ただ、普通の周囲の人にそこの違いが分かるかどうかは別問題。実際にあるかどうかは別問題で、そういうものがあると思われていることを問題にしているという説明をするのが簡単なんだけど、そういう説明の仕方だと「そういうものがあると思われているってのは、それがあるという前提なんだよね?」と勘違いされることもある。そこの違いは決定的な違いなんだけど、その違いが分からないという場合が意外にある。

案外いろいろと説明しようとすると面倒くさい話だったりする。

しばらく前の地球ドラマチックでドラゴンを扱った回があった。それの終わりの方で、「確かにドラゴンを退治したのでしょう。そのドラゴンが何であったのかは別の問題です」みたいな、研究者の発言があったのですが、そこでそういう問題の区切り方が分からないという話があったので。それも同じです。

Lifelogというか尖った未来

この記事で紹介しているMovesがどうのこうのという話ではないということをとりあえずまず書いておきます。


ここのところのウェアラブル機器とかスマートウォッチとかで言われているライフログって、ライフログって言い出した人の考えてたものからズレてる気がします。とりあえず言うなら、「ヴァイタルログ」という呼び方の方が良いような気がします。


ラ イフログのライフが「生命」とか「生きてる事」とかの意味なら、最近の使われ方でも構わないと思います。そういう意味も含んでいたのは当然ですが、どっち かというと「人生」という意味あいの方が強かったように思います。「人生の記録」が、脈拍や居場所の記録で良い、というか構わないのでしょうか? 何をしたか、何を感じたか、何を考えたか、そっちは置き去りで構わないのでしょうか? あるいは、その辺りはエディタとか、見たものはムービーやカメラ、聞いたものはレコーダで構わないということでしょうか? それらを統合しなくて構わないのでしょうか? 統合しましょうよ。


「こうあるべき」という考え方は好きではありません。なのでそういう言い方はしたくありません。


ただ、ライフログに限ったことではありませんが、20数年前から15年くらい前の間に、尖った研究者や製品、フィクションを通して、当時から見て未来を、そ れなりに今に近い世界を(もっと未来も)、見てしまっているという感じが強いのです。理念も込みで。刷り込みに近いかもしれません。


「理念も込みで」ということの影響がやはり強いのかもしれません。いくつか今ある製品を見て、「本当にそれはあれの後継者なのか?」と思う物も、まぁ実際にあ ります。世の中では「革新的」と言われている物の中にも、「20年前と何が違うの?」と思う物も、まぁ実際にあります。


例 えば、コンピュータ(タブレットも込みで)。こんなにアプリケーションに縛られた未来など、20年前には見ていません。これは当然使い方次第での話です。 ですが、今はもっとアプリケーションに介入できたはずです。例えば教育環境へのICTの導入(特に小中高)。20年前か15年前に見た未来のままじゃない かと思います。例えばデジタル教科書。アラン・ケイが言った(研究も続けられています)、Dynabookはそんなに不自由なものだったのか? どれもこれも誰かが言っていた理念をどこかに置き忘れて来ているという印象をどうしても拭えないのです。

これは私 の世代における呪いのようなものかもしれません。70年代には無闇矢鱈に明るい未来を見せられ、また同時に公害による暗い未来も見せられ、80年代以降は On The Edgeな未来を見て、そしてまた80年代以降は尖った理念を見て来ました。公害による暗い未来やOn The Edgeな未来を見ているとは言え、明るいとか理念とか、そもそもOn The Edgeな未来ですら、結局尖った未来を見続けて来ているのです。そりゃ、今はもっと尖っていたはずだと思ってしまいます。


もちろん、尖り続けている方々もいますし、尖り続けている理念もあります。ですが今の人達は、その尖ったものをどれほど見ているのでしょうか?

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