2014年07月

前略 ダーウィン先生

チャールズ・ダーウィンの「生涯と書簡」という本に、こういう一節があるそうです。

人間と他のすべての感覚のある生き物が、長期にわたるゆっくりとした進歩の後、完全に絶滅する運命にあるというのは、耐え難い考えである。

地球上でも完全に絶滅するのは10億年以上未来の話だと思いますが(たぶん、太陽の寿命近く)。

人間に限ったとして、かつ人間が現在程度の文明を維持できなくなった場合に限ったとしても、その場合でもまったく同感です。

ですが、技術的な限界から、その可能性も考えに入れておかないといけない時点になっている、あるいは近づいているようです。

1970年代には明るい未来と、公害による暗い未来を見てきました。1980年代なかば以降は、暗い未来を見てきました。でも、その場合も、人間はその叡智でよりよい世の中を求める事ができるという思想が根底にはあったように思います。たとえば、公害についてですが、乗り越えたバッドエンドの1つでしょう(ひとまず国内に限定しても構いませんが)。

ダーウィン先生が生きておられた世界は蒙昧が支配していた暗い世界かもしれませんが、ダーウィン先生自身は明るい未来を見ておられたかもしれません。明晰な思考が広く行き渡るという明るい未来を。ですが、私たちはたとえば公害を乗り越えたという希望を見た後に、テロや科学に対する蒙昧、そしてエセ科学など、人間は叡智を持っていないことをも見てしまいました。特にエセ科学はダーウィン先生の時代、あるいはそれより以前から生き残っているものかもしれません。先生が思い描いておられたかもしれない明晰な思考が広く行き渡るという世界は、あるいは明晰な思考を持とうと人々が願うような世界は決して訪れない世界なのでしょう。

私たちは、「耐え難い考え」と共存し、もしかしたらその始まりを見なければならない世代かもしれません。

X-MEN: Days of Future Past

, Hugh Jackman, Patrick Stewart, Ian McKellen, Jennifer Lawrence, James McAvoy, Michael Fassbender, Bryan Singer, 20th Century FOX, Marvel, 2014.

面白かったです。派手だし。Patrick Stewartも久しぶりに見れたし。エグゼビア教授とマグニートーも、Marvelの方だとどうかは知りませんが、実際には敵ではないという感じもあってよかったです。

ただまぁちょっと思わないところがないでもない。私は最近は基本的にタイトルの邦訳とかにはあまりものをいいませんが。今回はちょっとだけ。邦題は「X-MEN: フューチャー&パスト」となっていますが、これだと原題での副題「Days of Future Past」の意味とはまるで違ってくるかなぁという気がします。

「フューチャー&パスト」だと、「未来」と「過去」が並置されています。

原題の副題から切り抜くと「Future Past」。この説明は少しめんどくさいですが。ともかく「未来」と「過去」の並置ではありません。

観てもらえばわかると思いますが、邦題では失われている内容についての情報が、原題では盛り込まれています。

タイトルについては、GRAVITYでもちょっと思うところが実はあります。邦題は「ゼロ・グラヴィティ」でした。「ゼロ・グラヴィティ」だと宇宙の方に重きが置かれているように感じます。対して"GRAVITY"だと、重力そのもの、言い換えれば重力井戸に重きが置かれているように重います。まぁ重力井戸と感じるか、「帰還できてよかった」と感じるかの違いはあるでしょうけど。

なんにせよ、プロが練った邦題だと思うので、基本的にはあまり何か言うつもりはありません。ただ、原題の良さを失う邦題をつけてもどうなんだろうなと思うというところです。

人間は考えるのか?

前にも同じようなことを書いたかもしれませんが。その際はご容赦ください。

さて、人間は考えているのでしょうか? 心理学や脳生理学、言語学などなどなどなどが対象にしているのは、原則として「考えている人間」です。

さて、チンパンジーの知的能力を測って、「これもできた」というような報告があります。ですが、それ、大体は「ほぼすべてのチンパンジーができた」ということとは限らない。「半数のチンパンジーが出来た」ということでもない。言ってみれば「特殊な個体において出来た」というようなものではなかろうかと思います。つまり、そのデータそのものがとんでもないバイアスがかかっているのかもしれない。

人間は自身をホモ・サピエンスとしています。「知恵のある人」というわけです。そこで「本当に?」という疑問が出てきます。ホモ・サピエンスと言い出した人達は、知的能力がかなり高い人達でしょう。自身をもってバイアスとなってしまっているということはないでしょうか?

おそらく1万年前とかから、Homo Sapience SavantとHomo Sapience Idiot (仏語が混じってるけど)に分かれ始めているのかもしれません。

脳は全員のカロリーの20%を平時でも使っているとか(20%は間違いかも。多いことには間違いありません)。狩猟採集でも渡りなどの経路、木の実などのありかなどなど、考えないと言えないことが降り掛かってくる。おまけに反射でどうこうするだけではなく、長老とかからの助言をもとに考える。強力な武器を持たず、持っているのは脳だけ。それをできるだけ使ったことでしょう。もちろん、栄養状態によって、充分にその性能を発揮できなかったということもあると思います。考えることが生き残る条件。そういう条件ではそういう人が子孫を残すのに有利だったかもしれません。

ところが、まぁ、1万年前の農耕の始まりで、原始農耕においては時期程度しか気にしなくてよくなった。その後、時期だけじゃなく天候、手入れを気にする必要は出てきましたが。

ともかく農耕により、一定のカロリーの確保が可能になり、かつ一定のカロリーを得られることにより、脳の性能を引きだすことは容易になったかもしれません。しかし、単純に言って考える必要性は減った。なぜなら農耕によって一定線は確保できるようになったから。とは言え一瞬にして脳が小規模化するわけではないので、余剰能力をつかって道具やいろいろなものを作ったり観察したりしてました。ですが、脳の働きとして高レベルのものを期待する必要はなくなった。

数千年前には文字と都市国家が現れました。実のところ文字は、文字としてどういうものを使うかは置いといて、「その言語にどういう音があるか」があるのかがある程度わかっていないと作れない。というわけで文字の発生は謎に包まれています。ヒエログリフなんかは読み方が特殊などで除外するとして(まぁ基本表音らしいですが)、漢字なんかは文字というよりwordですんで、なおさら面倒だったと思いますが。(まぁ普通の文字と漢字では使用目的も違うわけですが。)

さて、文字が発明されると記録をとれる。都市国家になると明文化された法律ができる。最近、「ぐぐればいいってもんじゃない」てなことを言われますが、まぁ似たような状況が現れたわけです(アクセスできる人は非常に限られていましたが)。

そうやって外部記憶に頼るようになった。扱う情報が格段に増えているかというと、実のところ普通は増えていません。ちょっとした手帳をどれくらいの期間で使いきりますか? 昔はどうだったかを考えてみます。個人で考え、覚え、書いておいたもののをメモしていた。これはたぶん今と量的にはともかく質的には同じくらい(今、結構多く書いている人と同じ。紙などが貴重だったという根本的な問題も関係して)。ですが、規則、法律を書き出すことにより、メモ書きする必要も、覚えとく必要もなくなっています(少なくなっています)。考える必要がない状況がここでも現れている。ここでも脳の余剰能力が生まれる。まぁ一部の事務職では余剰能力が存在しないか、使わない人が目につくかもしれません。

少なくとも二つの余剰能力がその後にどのように影響したでしょうか? どちらも余計事を考えず、「うまくいっている(ように思える)方法に従う」方がこのまれるかもしれません。すると余剰能力を使って何かをいていた人より、余剰能力を使わない人のほうが子孫を残しやすかったかもしれません。そもそも論てきに余剰能力を使っていた人は少数だったかもしれません。

そうすると、遺伝子プールには、余剰能力をもつDNAは残りにくかもしれません。なにせ不要な遺伝情報ですから。あるいはあくまでイレギュラー用として残っているのかもしれませんが。

宗教、社会制度、いずれも人間の行動規定するものです。それも普段は考えないですむように。それが人間の本質名の知れません。


その結果現れる世界は、Homo Sapience Idiotの世界です。そして、「すばらしき新世界」こそがHomo Sapience Idiotにとってのの理想郷であり、人間の叡智の一つの極限と思われるのでしょう。
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