2014年09月

分けた後に、残るもの

あちこちの神話では、テキスト上においてその比較的早い時点で、何かと何かを分けるという話が入っています。

現 実世界も、あちこちで何かと何かを分けるという行為を行なっています。某テーマパークでは、日常と切り離されていることを売りにしています。某テーマパー クだけでなく、一般のテーマパーク、アミュージュメントパーク、遊園地、一括で同じでしょう。快や楽(このstoryでは”楽”はあくまで”楽しい”とい う意味で使います)と、通常とを分けているでしょう。

宗教においては、死と生(彼岸と此岸)であり、聖や尊と俗でしょう。

美術館においては美と俗を。

博物館、学校では学と俗を。

法律などによっては悪と正を。

さ て、では分けられた末に残ったここには、実際何が残っているのでしょうか? 快や楽ではなく、聖や尊でもなく、美でもなく、学でもない。残るのは生と俗と正です。いえ、その俗に実際に何が残っているのか? 生しか残っていないでしょう。正についてはどうか? 法律あたりを基にする限り、そもそも正の定義が悪でないこととしか定義できないでしょう。ならばその正はnullです。

分割の結果、日常には生きることだけが残ります。生きることの中に楽しさを見出すことが正しいありようだと。

おそらく、それこそが「正しい日常」なのでしょう。

ですが、私はそのようなあり方を否定します。日常は楽しくあれ、尊くあれ、美に―少なくとも―触れられるものであれ、学ぶものであれ、正しさは自分できめるものであれ。

なぜ、人間はそういう生き方を放棄した、あるいは放逐したのでしょうか? キリスト教においては、人生は役務であるという基本的な考え方があります。つまり、人生は楽しくあったりしてはならないのです。これは、世界中に影響を与えている考え方でしょう。

ですが、私はそのようなあり方を否定します。楽しくなくてなんの人生でしょうか。これは私が物狂徒(唯物論者)だからかもしれませんが。


ところで、日本SF展といくらの醤油漬け(まついなつ)という記事があります。そこで指定されていることとして、「セックスの匂いが希薄」というものがあります「セックス」ではなう「恋愛」でも「人間関係」でも「生活」でも同じようなものなのかもしれません。ですがそれらに比べてもセックスは弱いかもしれません。

私 は、セックスや恋愛や生活よりも重要な事があると考えていますので、著者(まついなつ)には賛成はできません。ですが、あくまで一つのサンプルではありま すが、生活という回し車を回し続けること、生活や組織という擬似永久機関を回し続けようとすること、それが否定出来ない割合の人間にとっての現実なので しょう。


面倒なことを言わずとも、告白したあと別れただの、そんなことが列挙されているだけのものを読んで面白いのかと思いますが。


閑話休題

そ れからもう一つ。人間は群れを作る動物です。つまりリーダーがいるということです。私は人間のそのような本性も否定します。人間はもうそこを通り過ぎた生 き物だと思うからです。それを可能にする技術も手に入れています。そしてそれに基づく階層構造も否定します。肩書による階層構造は意味をなしません。い や、意味はあるのかもしれませんが、私にはどういう意味があるのか理解できません。

人間はヒトの一つであろうとしていい頃ではないでしょうか(あるいはもう遅いのかも)。

-wl/sk/hm

ロボット心理学者

アジモフのロボットもの、特に「我は、ロボット」と「聖者の行進」で、スーザン・キャルヴィン博士の職業は”ロボット心理学者”でした。「ロボットの心理学?」とおかしく思われる方もいるかもしれません。

さて、私が「考え方(ロジック)は1つなのか?」と「人間は考えているのか」と「人格の転写とか、知能の転写とか」あたりで触れた事柄があります。大雑把に、「人間が考えていると思っている事柄は、実際に考えているのか。それとも考えているという幻想なのか」というような話です。


その上で、次の本を挙げます。

「真空の海に帆をあげて(12 アシモフの科学エッセイ)」アイザック・アシモフ(山高 昭訳), 早川書房, 1988.

この中の「33. 新しい職業」(pp. 146–149)にてキャルヴィン博士をひき、こうあります。

もっ とも、知能と思えるやり方で仕事ができるロボットを設計し制作しても、彼らが人間と同じかたちで知能を持つことは、まずありそうもない。第一に、彼らの” 脳”は、人間の脳にあるものと違う物質でつくられている。第二に、彼らの脳は、別の構成要素をつなぎあわせて組み立てられ、別の方式で組織されていて、 (おそらくは)まったく別の方法で問題に取り組むのである。

構 成する物質とか、構成要素のつなぎ合わせ方とかが、根本的な問題になることは考えにくいかと思います。考えるということは、おそらくハードウェア(ウェッ トウェア)の問題ではなく、ソフトウェア(ウェットウェアの一部も含む)の問題だろうと思うからです。ですが、おそらく「まったく別の方法で問題に取り組 む」であろうとは思います。人工知能において、はじめは記述できると考えていたのが、むしろ統計を使うと良い物ができるという流れになったように。もちろ ん、統計のモデルとして獲得したものが、人間の知能と関係ないものなのかどうかは分かりませんが。

そして、こうもあります。

なぜなら、根本的に違う二種類の知能を詳細に研究すれば、いま可能なよりもはるかに一般的かつ本質的に知能を理解することを学ぶかもしれない。

もしかしたら、そうなのかもしれません。

仮にロボットによって人間とは違う知能のあり方が―それも十分に発達した(?)―実現されたとしましょう。そうなって初めて、少なくとも今よりははっきりとした、「知能とはなにか」を考えることができるのかもしれません。

そ してロボットの知能のあり方が違えば、まさしくロボット心理学者も必要でしょう。あるいは、さらに「普遍心理学」(「一般心理学」という言葉を使いたいと 思ったのですが、そういう言葉は既にあるようなので、若干違和感はありますが仮に「普遍」という言葉を使っておきます)とでも言えるような、脳やそれに類 するもののマクロ的な働きを考えることも可能になるかもしれません。

ランドスケープと夏の定理」にある「知性定理」が実現されるとしたら、もしかしたら普遍心理学の世界においてなのかもしれません。

-wl/sk/hm

リングワールドは可能か?

さて、きっちり計算しようとすると面倒なので、wikipediaの「大きさ順の太陽系天体の一覧」のデータのみを使います。その他にも面倒なので構成する物質やその比率を無視し、質量のみを考えます。また、小惑星帯にあるであろう有象無象や、オールト雲とかも基本的に無視します。

さて、それで何を言いたいのかというと、太陽系内の物質でリングワールドを構築することは可能なのかということです。

上のページに挙げてあり、かつ推測であっても質量が挙げてある惑星、小惑星、微惑星、衛星の総質量は2.66884E+27kgとなります。 1.1E+10という書き方は、1.1 * 10^10の意味です。ここでは当然太陽の質量は除いていますが、地球と月の質量は込みです。リングワールドの構築中、人類はどこに住むんでしょ? (笑)。

さて、太陽を可能な限り包み込むダイソンスフィアでは違うかもしれませんが、リングワールドですので、単位面積あたりに当たる太陽光の量は同じになるように、地球の公転軌道にリングワール ドを作ることにしましょう。すると、地球公転半径は1.474E+11 mです。それに従って、円周は2πrにより、9.261E+11 mとなります。

先 に行く前に、地球についてちょっとまとめときます。地球の体積は1,083.211E+9 km^3。これを立方メートルに直すと、1.08321E+21 m^3です。地球の重さは5.9736E+24kg。ここで立方メートルあたりの重さは、5514.72kgとなります。

さて、上で公転軌道の円周の長さを求めましたが、リングワールドでは面積が必要です。そこでいくつか場合を分けます。

場合1: リングの幅が1,000km(1,000,000m)の場合

この場合、リングの表面積は9.261E+17 m^2となります。

ここで、強度計算は分からないのですが(使うものや構造によってかなり変わると思う)、地球の地殻の厚さを参考に、リングの厚さを50km (50,000m)とします。

ここでも手を抜き(本来なら、円筒からその内側の部分を引いて計算しないといけない)、面積と厚さの積でリングの体積を出してみます。すると、4.631E+22 m^3となります。

さらに、根拠はありませんが、先に求めておいた、地球の立方メートルあたりの重さとこの体積の積により、質量を推定します。すると、2.554E+26 kgとなります。

場合2: リングの幅が地球の直径に等しい場合

この場合、地球の半径は6,371kmですので、リングの幅は12,742,000mとなります。これと円周との積により、リングの面積は1.180E+19 m^2となります。

ここで、リングの厚さを上の同じく50km(50,000m)として体積をだすと、5.900E+23 m^3となります。

さらに同様に質量を推定すると、3.254E+27kgとなります。

場合3: リングの幅が地球の直径に等しく、リングの厚さが幾分薄い場合

この場合、地球の半径は6,371kmですので、リングの幅は12,742,000mとなります。これと円周との積により、リングの面積は1.180E+19 m^2となります。

ここで、リングの厚さについては、40km(40,000m)とします。この場合で体積をだすと、4.720E+23 m^3となります。

さらに同様に質量を推定すると、2.603E+27kgとなります。

場合4: リングの幅が地球の円周の四分円分に等しく、厚さが薄い場合

この場合、地球の半径は6,371kmですので、円周は12,742,000mとなります。四分円ですので、その1/4=1.001E+007m (10,007,541.32m, 10,007.5km)。ちょっと補足しときます。場合2と場合3のリングの幅は地球の直径です。それに対して、こちらでは円周の1/4です。2rと2πr/4、 πと4は近いので除くとして考えると2r≒2πr/4になります。これと円周との積により、リングの面積は9.268E+18 m^2となります。

ここで、リングの厚さを50km(50,000m)とします。この場合の体積は、4.634E+23 m^3となります。

さらに同様に質量を推定すると、2.556E+27 kgとなります。

場合5: リング内の面積が地球の表面積に等しい場合

この場合、リングの幅は5.507E+2 m、つまり550.7mになります。

これはあまり嬉しくないと思いますので、ここまでで破棄します。


さて、大雑把にも程がある計算ですが、ひとまず結果をまとめてみます。いずれもオーダーと言う程度の話と思ってください。

系内にある物質の質量: 2.66884E+27kg 。

場合1: リング幅が1,000kmの時に必要な質量: 2.554E+26 kg。

場合2: リング幅が地球の直径に等しい時に必要な質量: 3.254E+27kg。

場合3: リング幅が地球の直径に等しく、リングが幾分薄い場合に必要な質量: 2.603E+27kg。

場合4: リングの幅が地球の円周の四分円分に等しい場合に必要な質量: 2.556E+27 kg

場合5: あんまり嬉しそうじゃない。

すると、場合1は系内の質量より一桁少ないので、できるかもしれない。

場合2と場合3と場合4は、系内の質量と桁が同じなのでどうなるか分からない。

というところでしょうか。

ちなみに、場合1の1,000kmというのは、直線距離で仙台-山口程度のようです。あまり幅があるとも言えないかもしれません。

リングの幅が地球の半径の場合は、場合2の1/2で質量は1.627E+27 kgになります。


というわけで、系内での移動さえどうにかすれば、系内の材料だけでリングワールドは作れるかもしれません。これはちょっと予想外でした。

で すが、地球のある辺りはそれほど恒星系が密集しているわけでもないので(地球の傍でなくても同じようなものか?)、リングワールドを作った後、系外に出て 行く材料にするものの調達が難しくなるかもしれません。系外に出て行くことを考えると、場合1に近いあたりの物を作るのがいいのかもしれません。あるいは、そうでなくとも、物質の内訳を考えるとその辺りになるのかもしれません。

すっ ぽり包むタイプのダイソンスフィアは、単一の系内ではおそらく無理なのでしょう。そうすると、近くの系まで食いつぶすことになるかもしれません。その場 合、その系から外に出ようとすると、途中で寄港するような場所もなくなるわけで、ますます外に出て行きにくくなるのかもしれません。計画的に残しておけば 話は別ですが。

疑え

知性定理に おいては、知性をなす事柄による構造は位相的構造、あるいは位相変換(これは構造主義でまじにある言葉です)によって、様々な知的存在における知性をなす 構造を対応付けられるという設定を用いています。では、菌と人間で、そのような位相変換が可能でしょうか? 可能かもしれません。では、菌と人間に大きな違いはないのでしょうか

まぁ知性とか、知性に見られる構造とか考えると面倒です。ただし、そういう位相変換が不可能ではないことは想定できると思います。では、やはり大きな違いはないのでしょうか?

しかし、菌と人間の間のどこにあるのかは知りませんが、違いがあることも否定しがたい考えです。よく、人間はメタ道具を作ると言われます。では細菌は作るで しょうか? もしかしたら環境の変化を誘引する物質を出し、それにより好ましい物質を周囲に呼び寄せるとか作り出すとか、そういうことはあるかもしれません。でも、細 菌と人間がまったく同じということもなさそうに思えます。少なくとも、知覚は違うと思います。知覚が違えば、他の部分にも違いがあってもおかしくないと思 います。

その違いとは何か? おそらくその一つは「疑うこと」でしょう。そこで、人間が持つ特権の一つは「疑う」能力だとしましょう。人間以外の動物も持っているのだろうとは思いますが、どこで区切れるのか分からないので、ここでは人間の特権としておきます。実際にはシグモイド関数みたいになっているのかも知れませんが。あるいはカタストロフィー曲線(その一例はこちらの図4を見てください)。左から右に(あるいは逆に)進んでいくと、ある点で跳躍が起きるようなものです。

ですが、社会や組織においては、疑う能力は脅威になります。例えばソビエトにおいて、「社会主義・共産主義は実際どうなのだろう?」と疑った人はどうなった でしょうか。中国の文化大革命で、「知識層を糾弾することは、社会にどういう影響をおよぼすだろう」と疑った人はどうなったでしょうか? まぁ疑うということは極めて危険な能力です。

そこで、為政者にかぎらず行なう方法は、疑うことを禁止することです。これは現在においても同じことです。法律、規則、ルールなどを神聖化することにより、疑うことを(明示的ではないにせよ)禁止するという方法です。そして疑わないことを美徳とすることです。

さて、そういう禁止を受け入れるということはどういうことでしょうか? 善き人間になるということだと言えるでしょう。ソビエトでも中国でも、善き人が弾圧していたわけです。言い換えれば、外部プログラムに依存することが善き 人である条件だとも言えるでしょう。これは宗教やカルトやその手のセミナーでも同じです。

そういう―規模はどうあれ―集団において善き人になるには、疑ってはいけません。ですが、それは人間の特権である疑うという能力を放棄することを意味してい ます。組織・社会において善き人であろうとしている人は、自分の知性を放棄し、外部プログラムに従うことを是としているように思います。外部プログラムに 従う事こそがが、そういう人たちにとっての知性の証なのかもしれません。あるいは文明人であることの証なのかもしれません。知性を放棄して人間であると言 えるのであれば、そういう言い方も可能でしょう。しかしここではそうではないという立場を取っています。観察の結果ですが、そういう人たちよりもフェレッ トの方が賢いと思えます。


ちょっ とフェレットについて書いておきます。フェレットが流しに登れるようになりました。棚の段を登れは行けるだろうと思っていただろうは思います。これだけで も凄い。その上、段を登る時に背中を壁に預けて、上の段に前足をかけ、そこからウンショと上の段に登ります。これ、環境の脳内へのモデリング、プランニン グ、そして脳内でのシミュレーションが行なわれていると思います。こんなことをやっている人間がどれほどいるでしょうあ?


閑話休題。

そこで、人間たらんとするならばどうしたらいいのかの答えも出てきます。つまり、疑うことです。疑わないのであれば、人間であることを放棄していると言えるでしょう。

疑え、疑え、疑え。それが人間であることを証明する、あるいは確認する、もしかしたらたった一つの方法です。それを手放したら、人間―あるいはヒト、つまりは一定の知性も持った存在―ではなくなります。

ただし、疑うには一定の知性が必要です。一定の知性を持たずに疑っても、マヌケな結論に飛びつくだけです。例は挙げるまでもないでしょう。そう考えると、疑 うとはかなり高度な知的能力なのかもしれません。そのラインに達していない人間は一体何者なのでしょうか? おそらくここでどうにかして一線を引く必要があるのかもしれません。これはこれで結構危険な考えではあります。

もちろん、このStoryも疑ってください。


さて、私のStoryでは、どれを見ても、「べき」(「〜するべき」とか、そういうのに類する言葉。まぁこれはこのてのことについての自分ルールの一つです)という言葉を極力避けていることにお気づきの方がおられるかもしれません。

その理由はこの記事で書いたとおりです。「べき」という言葉は、疑うことを禁止します(少なくとも私はそう感じます)。「べき」と言う側も、実は「べき」と いう言葉にしばられ、考えることを放棄し、その人が「べき」といったことに対しての疑問など受付もしないからです(少なくとも私はそう感じます)。そして、フィクション上であっても「べき」と「正しい」という言葉を使うと簡単に狂気を作り出せます。「べき」と「正しい」と言う言葉は、それだけ危ういということかもしれません。

「べき」という言葉に限りませんが、それは人間が持っていると前提される知性への冒涜です。知性を放棄させ、善き人たらんとさせるには逆に便利な言葉です。

言葉狩りをするつもりはありませんが、私自身にそういう制約を課すことは、このStoryで書いたような事を私に意識させる簡単な方法なので。なので他の人にそういう制限を課す意図はありません。あくまで自分ルールです。

CSS手直し

ここのCSSでhrタグのclass設定を追加した。
上手く動いてるみたい。

あとblockquoteも以前手直しした:
ここはブロッククオートです
この先頭にある"は、beforeでキャラクタを設定してる。画像を置いたりとかめんどうなことはしてない。

結構自分で手を入れられるけど、Mediumとか見ちゃうと、そのあたりをあまり気にしないでいいのと、手を入れられるのと、どっちが好きかについては悩ましいな。

大学の見分け方と「頭お*しい」

ちょっと長いです。高校時代の先生が言ってたことから、色々と。

大学の程度は名前で簡単に見分けられるとのこと。地域名が入っている大学の場合、「その地域が狭い方が広い方よりもまとも」と言ってました。他意はありませ んが、その先生が言ってた例で、「東京大学」や「早稲田大学」は「地域が狭い」。対して、「日本大学」は地域が広い。まぁ「亜細亜大学」とかありますけ ど、広いですね。あと、「学院」がついている大学はちょっとなぁとも言っていました。その先生が言っていたことで、私としては他意はありません。いろんな ところで面白い事やってる先生がいますから。

最近だと「国際」とか名前についてる大学もありますね。これもその中に入るのかなぁ。

これはその先生が言っていた事ではありませんが、比較的最近言われているのは、名前にカタカナが入っているとやばいというのもあります。


そういうのよりも、まずいのがあるのかもしれません。

今どき、一つの都道府県で1,2個程度しか大学がないという地域はほとんどないと思います。ですが、まぁそういう土地があるわけです。

私の実家がある田舎の県でも9個とかあるし。その内の一つは仏教系の特殊な大学ですが。3, 4個は比較的最近できたとこですね(大雑把に20年以内程度)。


仏教系といえば、僧侶の資格を得る話。実家が寺の友人がいました。僧侶の資格を得るのにはそこそこ長い修業期間が必要になるようです。ですが、その友人の場 合(友人の家の宗派の場合)、いろいろな条件で(例えば、実家が寺とか)期間が大幅にディスカウント(?)されました。宗派によると思いますが。その話を 聞いて、一緒に大笑いしましたが。


閑話休題。

んで、大学の数が極端に少ない土地の場合。当然、他の土地の大学に進学する人もいますが、それでも大卒者は少ないようです。アパート生活とか親の負担になる のは確かなので、地元にある大学の数が少ないというのは、バイアスになるだろうことは想像できます。去年、今年とかという話ではなく、10年とかそれ以上 の話になりますが。

だからなのかは知りませんが、先日、コンビニに行く時に、会社の(?)先輩が後輩に(?)、「大卒だからってなぁ」というようなことを言っている場面に出くわしました。空耳してしまったのかと思いましたが、何回か言っていました。

それとは逆の場面にも出くわしたことが有ります。


そういう土地だと、なんというか、「頭お*しい」と思える事があるように思います。そういう土地だからというでもないのかもしれませんが。

何年か前の事になりますが、ある委員会でアンケートをとることになり、案を見たことが有ります。見事に誘導したいなとか、本気でこんなアンケート取るつもり でいるのかと思えるようなものでした。その意見を言うと、「上位委員会で決まったことなので認めてください」という返答が。「頭お*しい」のも、こうなる と見事です。上位委員会も「*能」の集まりかと思いました。


上位委員会がそうなので、おそらく学歴の問題ではないと思います。大卒の人も居るはずですし、博士を持っている人も居るはずなので。

すると可能性としては、地域性の問題が上がってくると思います。言うなら、gifted(元来の意味、使い方ではありません)な人が集まっている的な考え方とか、大卒はgifted(同上)的な考え方かと思います。

そうすると、「頭お*かしい」という状況は、地域性が支えている、あるいは形成しているのかもしれません。


地域性の問題意外にも可能性としてだけは挙げられるものもあります。例えば、知能の集団間の違いとか。まぁまず間違いなくそれはありえないと思います。


「頭お*しい」的な話は、土地の話とは別に、「根性論」とかそういう方向にも話が広がると思いますが、それについては少しだけ。

肩書でものを言う人がいます。「命令」で済むと思っているような人と言えるでしょうか。そういう人と議論をしようとしても、受け付けなかったりすることが有 ります。あるいは、議論とは自分が勝つためのものだという認識とか。勝ち負けはディベートというゲームでの話であって、議論には勝ち負けはないように思い ます。議論を受け入れないとか勝ち負けを求めるというのは、「頭お*しい」と思える行動、考えです。弁証法的なものが議論ではないかと思います。

その同類に「規則」を持ち出す人。その根拠は?と繰り返していくと、キレます。「頭お*しい」というか自分の知性の限界に達したことを認識したからでしょうかね?

そういえば「議論に勝つ方法」的な本もあり、売れてるらしいです。全国的に「頭お*しい」状況になっているのでしょうか?

んと、根性論そのものについては、下のキリスト教的云々の所に飛びます。


そういえば、「江戸しぐさの正体」という本を読みました。

江戸しぐさ自体、「江戸から続いている」という謳い文句を外して、提案するマナーを「江戸しぐさ」と名付けるなら、何も問題はないと思います。ですがそうではない。

1, 2年前ですが、ひと目みれば、「現代において、『こうであったら嬉しいな』という個人的願望で作られている」のは分かると思い、軽く考えていました。ですが、予想外の方向に進んでいるんですね。おまけに道徳の副読本や果ては教科書にまで使われるとか。

推奨しているTOSSは他にも、わざわざ選んででしょうけど、「頭お*しい」系の物を推奨していたり。

もう、「頭お*しい」のが人間のデフォルトかと思えてしまいます。


これはついでに。伯父が生前、「医師免許とっときゃよかった」と言っていました。時間が取れなかったので免許を取っていなかったが、取っておけば実験が楽 だったというような話です。生物物理化学でミトコンドリア(たぶんATP合成のメカニズムとかかな)を扱っていました。医師免許はいらないんじゃないかと も思います。生きた細胞なら口の内側を綿棒でこすっても取れるんじゃないかなと思いますが。そういうものでもないのかな? それで取れるのは実は死んだ細胞なのかな?

その伯父に進路を相談した時、化学系で私がやりたい事をやるなら、医師免許をとっとけと言われました。自分の話から流れて、どうせ覚えれば済む話だから的な流れで。というわけで、私にとっては医師免許は、何かするのに便利な場合があるからとっとけくらい。(化学系でやりたかったことは、DNA設計、言い換え れば人工生物の設計。ナノマシンだと白血球くらいのことはできないとなぁと考えていたので。)

実際工学の学位と医師免許を持ってる人ってそれなりにいるんですよね。

まぁ私は工学系に進みましたが、こっちはこっちでここ100年くらいの文系の話を勉強する必要がありました(今もあります)。

なので、「頭お*しい」のはむしろこっちかもしれませんが。


ある医師との面談では、その医師はこちらの表情や言葉の言い回しにまったく注意していません。有標な言い方をして気づかない。これは言語運用の準用な部分に重大な欠落があるように思います。

内科医、精神科医を受診したことがあればわかると思いますが、だいたいこちらの表情や言い回しに敏感です。話に聞くと、そこから重要な情報が得られるかららしいです。

そういうことを考えると、藪医者は医者として、それなりに能力を発揮するでしょう。ですが、その面談をした医者は「土手医者」と呼んでいいように思います。あ、土手医者はそれでも医者にはカウントされるので違うか。

「頭お*しい」人でも医師になれるのかと思います。


というわけで、話が元に戻りますが、大学数が極端に少ない都道府県にある大学には勤めるのを避けた方が良いかもしれません。

全てではないでしょうし、大学数が多い所でも同じようなことは起こるのでしょう。

それでもなお「頭お*しい」組織である可能性があります。


「頭お*しい」人は「基準を守るべき」という考えのようです。

さて、基準とはなんでしょうか? いまでもキリスト教は人生は役務である考え方があります。その考え方だと、労務は厳しいほど良いとなります。それは昔、労働者を酷使していたことから労働者を少しなりとも守ろうというものです。

少なくなくない組織において罰則のある規則があるのは、結局そういうところに起因するんではないでしょうか。

もし、各人が幼少時に自分が人生でやることを見つけているなら、規則が不要とはいいませんが、かなり違うものになっていたと思います。

人生は役務と考えるなら、「斯くの如く行うべし」に対して、罰が付くでしょう。

それに対して、自分が行なう事が降ってきた人は、「そのようになるべし」としか言えないでしょう。


で、結論。

この社会や組織は「頭お*しい」を基準に作られている

人間にとっては外部プログラムに従うので楽でしょう。ですが、ヒトにとっては地獄です。

そこで言いたいのは、Homo Sapienceは単一種ではない可能性を検討してみることももしかしたら必要ではないかと思います。

なお、農耕が始まったのが1万年ほど昔です。んで文字が現れたり都市国家が現れたのが5,000〜6,000年前。この5,000年〜6,000年前と比べて、現代人の脳容積は減少しているという報告があります。その理由として、農耕は行なわれていたのだから、栄養面でどうこうということは考えにくい。むしろ文字と都市国家の登場が直接的に影響しているのではないかという説があります。記録にせよ、ルールにせよ、覚えておいたり場面場面で考える必要性を排除しており、脳容積に対する淘汰圧が弱くなったという説です。それが知的能力に直結するわけではありません。要らなくなった所が小さくなったのに対して、必要になったところが大きくなっているのかもしれません。まぁ脳は体中の20%のカロリー(だったかな)を消費しています。これはどう考えても消費しすぎです。農耕が行なわれようと、都市国家などの形成により、使わなくていい部分が現れれば、淘汰圧によっても生育期においても小さくなる傾向が現れると想像できると思います。


問題は、それでどこまでやっていけるのかです。文字などの過去の遺産に寄生する形で、どこまでやっていけるでしょうか? 脳容積が500mlのホモ属かアウストラロピテクス属かでも結構高度な道具を作っていたということなので、仮にそこまで減っても遺産を使っている限りはどうにかなるかもしれません。(ホモ・ネアンデルターレンシスが1400ml、ホモ・サピエンスが1350ml。)


ですが、先にNHKスペシャルでエネルギー問題をやってた時、登場した人が「エネルギーはまだまだ大丈夫です」と言っていました。個人的には、おそらくこれは限界点を既に超えてしまっているように思えます。専門家でありながら視野が非常に狭い。その点で限界を超えていると感じます。

人格の転写とか、知能の転写とか

TRANSCENDENCEのStoryでも触れてはいますが。少し。



先に公開されたTRANSCENDENCEでは、人格(?)の計算機への転写(アップロード)が描かれていました。


こういう人格の転写というアイディアがいつからあったのかは分かりません。星新一の作品にあったと思いますし、宇宙鉄人キョーダインはやってましたし、Max Headroomでもやってました。それらは、個人の人格などの転写です。


人工知能を実現しようというフィクション上での、転写とは別のアプローチとして、電子頭脳であれ、あるはDNA(様物質)であれ、記述できる(設計できる)というアプローチがあります。


で、この転写にしても記述にしても、技術的に実現可能かどうかはともかく、そういう方法で何らかの知能を実現できるだろうというアイディアの基盤は次のようなものになっていると思います:

  • 記述: だって人間の脳ではできている
  • 転写: だって人間の脳ではできている

(同じになっていますが、誤記ではありません。)


ブレイン・プロジェクトが進めば、どっちの方法にせよ、あるいは両方の混合で、実現可能なのかもしれませんが。




ですが、ここで疑問が浮かびます。


人間は考えているのか?


これがコケたら、根本的な部分で、記述でも転写でも無理なんだろうなと思います。(無理というのとはちょっと違うかもしれません。)




さて、記述にせよ転写にせよ、少なくとも現状では人間並みの人工知能を実現するのは無理(特定の領域に限定するなら、どうなんでしょ?)。ですが、人工知能の道のりについて考えてみても、そういう分類がやはりできるように思います:

  • 記述: ルールベース
  • 転写: 統計、頻度など

今は、転写の傾向が大はやりです。


ですが、ブレイン・プロジェクトを前提としなければ、たぶん個人の人格や知能を記述、ないしは転写するのは無理っぽい気がします。


なぜ無理っぽいと思うのかと言えば、どっちの方法にせよ「サンプルが足りない」という問題に落ち着くと思います。




では、サンプルがたくさんあったら?


その場合、少なくとも現状では個人は無理ですが、人間の集団の知能のルールや統計などのモデルというのは作れそうな気がします。


特に統計の方は、実際、あちこちで使われています。この場合、ルールベースでも統計などでも、また疑問が浮かびます:

  • モデル上に(?)、何が表現、あるは実現されているのでしょうか?
  • そこには、知能のようなものが(一部ではあっても)記述・転写されているのでしょうか?
  • そこに表現、あるいは実現されているものは、人類の知能の、ある種の基本的モデルのようなものと言えるのでしょうか?

(どういう形であれ、あまり人間を元にしているとは言えない方法もありますが。)


あるいは、言語学においてはチョムスキー系の理論が結構うまくいっているのですが、そこに実際に理論は存在するのでしょうか? 知能というような場合、現象が理論的に表現できることと、実際に理論が存在することは等しいのでしょうか?




仮に、「人間は考えていない」ことが明らかになったとします(それが具体的にどういうことなのかは分かりませんが)。


ですが、既にある統計モデルであっても、なにがしかを学習しています。だとすれば:

  • 何らかのモデルを学習できるということは、その元になにかがあるということでしょうか? (つまり、ここでは「人間は考えていないと思われたが、実は考えていた」ということですが。)
  • あるいは、単に、「人間はこのように行動する傾向がある」という程度のものなのでしょうか?

もし、後者だとすれば、その「傾向」を人間が知能と呼んでいるのであったとしても、それは実際に知能なのでしょうか? (知能の定義にもよるでしょうけど。)


もし、そういう「傾向」が知能ということであれば、Singularityは実現できるのでしょうか? つまり、知能を記述、転写することができるのでしょうか?




ここで、「考えるとは?」というようなことを言い出してもどうしようもありません。サールの中国語の部屋という思考実験があります。そういうのとも関係しないでもありません。


た だ、サールが言っているような形で、「考える」ということを、媒体や方法に帰結させるのは難しいように思います。周囲から見て、考えているとしか言えない のであれば、その知能は存在するとしか言えないと思います。ですが、そういう状態と、実際に存在するというのとは同じ事なのでしょうか? (現実的にはそこで落とすしかないと思いますが。)


あ るいは、「自分自身を意識するかどうか」という話もないではありません。ですが、人間は本当に「自分自身を意識している」のでしょうか? これを考えると、ホムンクルスと無限後退に陥り、答えが出ません。ならば、「人間にはそのように勘違いする機構がある」のでしょうか? あるいは、脳の部位が適宜影響し合った結果がそういう「意識」であるということなのでしょうか? もしそうだとすれば、なんらかの形で自己言及できるシステムが作られたとした場合、「そこに意識がない」ことを確認することは可能なのでしょうか?




人工知能は今後どのような方向に進んでいくのでしょうか? Singularityは達成できるのでしょうか?


そ して、Singularityが達成できた時、人間は彼らをどう扱うのがよいのでしょうか? まぁ単純な話として、人格や人権があるものとして扱うのが良いのでしょうか? (個人的には、当然人格や人権が発生するという立場ですが。どこから発生するのかは分かりませんが。)




この辺りは、「考え方(ロジック)は1つなのか?」にも関係しないでもないです。人間が論理と思っているものは、本当に論理なのでしょうか? 論理とは言わないとしても、「合理的」と思っている考え方と思っているものは、本当に合理的なのでしょうか? そして、他の種にもその考え方というのは通用するのでしょうか?




いろいろな面で、人工知能ってやっぱり難しいよなと思います。


あと、伝統的に、「技術的に確立されると、それは人工知能とは呼ばれなくなる」という話もあったりします。まぁそのあたりは面倒になるので省略します。

特集 広がる知覚

日経サイエンス 2014年10月号, 日経サイエンス社, 2014.

この特集で、「センサー網が実現するESP」という記事、それとその中に「”存在”を再定義する」という項があります。


先日「マインズ・アイ[新装版]上・下」〔”The Mind’s I”〕を再読してたわけです。それでなんとなく思うところがあります。


「マ インズ・アイ[新装版]上」の「第4部 心はプログラム」に、「第13章 私はどこにいるのか? (ダニエル・デネット)」と、「第14章 私はどこにいたのか? (デイヴィド・サンフォード)」という章があります(この書き方だと孫引きになりますが、ご勘弁を)。日経サイエンスの特集は、どっちかというとマイン ズ・アイの第14章の方により直接的に関係すると思いますが。


今、改めて問われる問題になったというか、むしろやっと状況が追いついたというのか。




1980 年代前半から、MITのMedia Lab.(だったかな)では、”Talking Heads”というプロジェクトをやってました(gooleで検索してもいまいち引っかかりにくいです。素直に「画像」のリンク(だっけ?)の方に跳んで みてください。不気味な顔というかマスクが写ってる映像があれば、たぶんそれです)。MITでのそのプロジェクトも、今でもTelepresenceの研 究として続いているのかもしれませんが。当初は、受信側に物理的なマスクみたいなのがあって、送信側からの音声などが(目の動きや口の動きや表情も? いまいちどうだったのか覚えていませんが)、マスクで再現というか表現というかされているようなものでした。正直、そのギミックは「イマイチ、どうなんだ ろ」と思えるような不気味さがあったように思います。現在(?)は、映像のものになっているというか、もっと進んでいるのかもしれません。


マインズ・アイも1980年前半の本ですが、影響しあっていたのかどうかは分かりません。「MinskyがTelepresenceと呼んだ」というようなことは書いてあるので、両者にまったく影響がないとは思えませんが。




で、 ですね。普通のビデオ映像を映しての会話というのは、それなりに実現されているわけです。ビデオ通話もそれらに含まれるとは思いますが、日経サイエンスの 特集でも、「マインズ・アイ」の「第14章 私はどこにいたのか?」でも、もっと踏み込んだ話になっているように思います。「存在」という事、そのものに踏み込んでいるように思います(あれ? 「事」なのに、「そのもの」というのは何かおかしな気もするけど)。


実 際、Telepresenceの技術を使って通話、あるいは機器の操作などをした場合、私はどこにいることになるのでしょう? 「マインズ・アイ」に書いてあるように、結局、「私がどこにいると思ったのか」ということなのかなとも思いますが。ですが、だとすると、完全に並行しての 認識、認知とか理解はどうなのかは分かりませんが、時分割しての、「私がどこにいるのか」の認識とかはできそうな気がします。あとで思い出すときにややこ しくはなるかもしれませんが。




た だ、まぁ、そうすると、たとえばある時間の範囲内を繰り返すような時間物(Replayとか他にもいろいろ)のフィクションにおいて、場合によっては「人 間は、そういう重なった記憶を持つことは困難」と設定されることもあります。それはそうなのかもしれません。ですが、Telepresenceにおいて、 そういうことが可能であるとするなら、時間物において、そんなにきつく困難とする理由もないようにも思います。


もっとも、極めて根本の、というか大量の情報やチャンネルを使ったTelepresenceを用いた場合には、実際に人間が視点を頻繁に変えても、その事を本人が処理できるのかどうかは分からないのかもしれません。




あるいは、無人機を遠隔操作してる人も、無人機がやられるとそれなりのショックは受けるらしいですね。あくまで気分としてということらしいですが。では、大量の情報というかチャンネルで繋がった無人機、というかロボットがやられたらどう感じるのでしょうか?




まぁ、そんなこと思いましたので、メモっときます。

親子の認定について

先日、親子の認定について、法律かDNAか過ごした時間などの関係かという事についての判例が出ました。
民法の「嫡出推定」規定は、DNA鑑定の結果より優先されるとの初判断を示した。

ち なみに、私、子供の頃に養子の話がありました。まぁ相手はよく付き合いがある親戚でしたが。うちの親からも、向こうの親からも話を聞いた覚えもあり、後 に、そういう説明をしたとの確認もしてあります。親戚ですし、両方の家がやたら遠く離れているわけでもありません(車と電車で2時間くらいかなぁ)。適当 に行き来して構わないという話でしたし。まぁ、親戚の家はちょっとした会社をやっていたのですが、子供がいませんでした。ぶっちゃけると、それが養子の話 の理由です。結局いろいろ話して、養子には行きませんでした(話が面倒になりますが、別の親戚ともその頃から(もっと前からなのかも)結構後までちょい話 もあって。養子じゃないですけど。跡を継がせる的な話にくくれば同じような感じになりますが。でもまぁ継ぐとかっていう仕事とかやる事でもないですが)。 なんというか、その後、「双方、それはどうなんだろ?」的なやりとりが両親と親戚の間でありましたが、それはまた別の話。だからというわけなのかどうなの かは知りませんが、ちょい昔に、その親戚は「歳だから」ということで会社を売りました。んー、売ったというのともちょっと違うのか。でも別会社だったから 一応売ったことになるのか。


そういう経験があるので、こういう話について少しくらいなら何か言ってもいいんじゃないかと思い、これを書いています。


で、 まず嫡出推定という法律が、現在ではナンセンスだということ。その法律自体が「Y染色体の提供者が誰かなんて分かんねーじゃん」という時代のものを元にし ていること。Y染色体の提供者が誰か分からずとも、「俺の子じゃない」と分かる事例はあったはずですが、とりあえずそういうふうにしとくしかないという時 代のもの。それに基づいた判決を出す、バカが支配的な状況をとにかくなんとかしないといけないという状況を明らかにしています。もっとも、5人の裁判官の うち2人は、「ちょっとどうだろ?」と言い、意見も言っていたということなので、バカ支配についてはまだ希望があるかも。


そうすると、DNAか、時間が築いた親子関係かという話になります。これらは、どっちを優先すべきという結論は出せません。


ちょ い極端な話をしましょう。遺伝学的な親子であって、父が(母でもOK)が子を虐待していたとします。なので母が(父でもOK)が離婚し、その後別の人と結 婚したとします。子供は幼児だったので、そのあたりのことは知らない。再婚後の親子関係は良好だったが、子供が20歳になって戸籍を見て、父(母でも OK)だと思っていた人の子供ではないことを知った。まぁこの場合、養子にしてるんじゃないかとは思いますが(でも養子であるということは分かる)。さ て、この場合、父親(あるいは母親)は誰でしょうか? (書いていて思ったけど、案外極端な話でもないのかも。)


DNAと時間(と関係)のどちらかを優先すると法律で定めるナンセンスさが分かるかと思います。状況によって、双方の親、そして当人である子供の関係や考えを充分に考慮し検討するというルールの他には、何も定められないと考えるのが妥当でしょう。


た だし、遺伝学上の両親の両方から捨てられるという場合もあります。その場合は、「子の身分の法的安定性の保持」が重要になるでしょう。ですが、これも考え てみれば、DNAに基づく親子関係か、時間が築いた親子関係かを区別する理由はあまりありません。DNAに基づくものは、最後の手段と思うほうがいいん じゃないかと思います。例えば、上の例で、再婚後10年くらい経って母親が子供を残して失踪し、後に再婚相手と離婚したとします。その状況で遺伝学上の父 だからということで、子供の面倒を見ろと言われたとしてどう思うでしょうか? あるいは虐待があったことを知りつつ、遺伝学上の父親に子供の面倒を見ろと言える人がいるでしょうか? あるいは10年とか接してきた父親が放り出すでしょうか(放り出すかもしれないけど)?


も ちろん、遺伝学上の親も、関係としての親も分からないという状況もあるでしょう。それはそもそも嫡出云々がそもそも不明なので、法律でも対象外です。これ をどうにかしないとと思いますが、遺伝学的な親子だからという理由で、面倒を見ろと言われても…という状況もあるんだろうと思います。まぁそのうち国民全 員のDNAの情報を登録しておいて、「あなたの子供です」と言われるようになるかもしれませんが。そうなったら、言われた側はどう感じるんでしょうね?


この話に限りませんが、「考えろ」以外のルールを作るのはかなり無理という結論しか出てこないという例です。

飛び級について

飛び級というと、小学校の中でとか、小学校の途中から中学校へとか、中学校の途中から高校へとか、高校の途中から大学へとか、大学の途中から大学院へとかありますが。

どうも根本的に違うような気がします。そういうのがあっていいとは思います。ですが、それ以前に、小学校への就学年齢で小学校の3年生や中学校に入学させることを認める方がいいんじゃないかと思います。


というのも、単純に、「事物や言葉の間の関係」や、「抽象化、抽象概念の理解など」、ひとまとめに抽象概念の扱いの技能が、6歳かそこらだと、出来る人と出来ない人の差がとんでもないので。そういう状況だと、抽象概念を扱える人にとっては、正直地獄にしかなりません。


知 能テストで、結果は正規分布になると仮定していることとおもいっきり矛盾しますが、建前として、児童のスタート時の能力は同じという暗黙の前提があるよう に思います。知能テストの前提をそのまま表に出していいんじゃないでしょうか? 月並な言い方ですが、人それぞれに得意な事柄はいろいろあるわけですから。なので、それぞれの長所を伸ばせばいい話であって、例えば抽象概念を扱える小 学校一年生は我慢しなければならないという話は、それは違う気がするなあと思うわけです。

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