―分からないから面白い―, 元村 有希子, 毎日新聞社, 2007.

発行されてすぐに買っていたのですが、ほったらかしでした。先日、発掘し、ちょっと読んでいます。読み終わっていませんけど。

例えば、「水兵リーベの悲劇」(pp.39-44)なんかに、こんな記述があります。

そんな私が科学・技術を専ら取材するようになったのは皮肉な話だが、大人になって科学と再会したとき、目からうろこが落ちるおもいをした。

それは、研究者が「分からない」という言葉をいとも簡単に口にすることだった。

考えてみれば、分からないから面白いのだ。分からないことが分かるようになることを発見と呼んだり発明と言ったりもする。そもそもすべてが分かってしまえば、研究者は失業してしまう。技術者だって一部しか生き残れなくなるだろう。

かろうじて研究者としての立場として言えば、そうです。研究者は、分からないと平気で言います。分からないから研究しているわけですから。

しかし、卒業研究なんかに来る学生にとっては、先生が「分からない」というと、不安になる人もいるらしいです。分からないからやるんだということ自体を理解していないのかもしれません。あるいは、分からないという状態を維持する事自体に不慣れだったりするのかなという印象もあります。卒業研究も、具体的にどうやったらいいのか、どういう結果が得られるのか、そういうものを模索しながら、一年なり半年なりかけてやっていくわけです。学生実験みたいに、やることも答えもはっきりしていることをやるわけではありません。そういう、先が見えない状態は、まぁそれは確かに不安でしょうけど。以前書いたマニュアル化の問題なんかも関係しているのかもしれません。

また、「科学技術を鍛える」(pp.14-18)には、こんな記述があります。
こんな生徒はごく一部で、多くの教師や生徒は成績や教科の好き嫌いだけで文理を決め、疑いもしない。さらに悪いことに、文系か理系かを一度決めてしまうと、進路変更はほとんど不可能だ。
まぁ、何と言いましょうか。別に「(ほとんど)不可能」ではありません。私も、学部からずっと工学系で来ていますが、修士に入るときには文系(心理系ですけど)に行くことも考えました。工学部からの文転では基礎的なところを勉強する機会があった方がいいだろうということか、そもそも「こいつは修士に入る力量があるのか?」と思われたのか、それは分かりませんが、ともかく、一回研究生をやってからという条件付きではありますが、受け入れても構わないという返事を頂いたことがあります。(研究生自体、その先生のところで受け入れOKという返事を頂いていました。いろいろと考えて、「こちらから言っておいて申し訳ありません」ということになりましたが。)

私の場合、工学系単科大学だったので、転学部という選択肢はありませんでしたが、総合大学なら、それも可能でしょう。

要は本人の気持ち次第だと思います。

で、私は今も工学系(センターと学科・専攻の兼務ですが)に居るわけですが、ちょっと前のエントリなんかを見てもらえば、まぁ分かる人には分かるかなという感じで、理系なんだか文系なんだか分からないことをやっていたりします。結局、学歴・職歴としては理系(工学)でずっと来ているわけですが、やりたいことをやるには別に理系も文系も関係ありませんから。自分の気持ち次第です。

好奇心や興味を持ちつづけるとか、好奇心や興味を広く持つとか、結局は本人の気持ち次第だと思います。

私の感覚からすれば、世の中で、そんなに文理が分離しているとしたら(笑)、その方が変です。もっとも、そんなことを言えるのも、情報系だからかもしれませんけれど。