池田 邦彦、双葉社、2011.

この作品については、特になにか言うわけではありません。

まぁ、世の中にはシャーロキアンと呼ばれる人が実際いるわけです。シャーロック・ホームズは実在の人物で、ホームズ物(コナン・ドイルの著作限定が基本?)はワトソン医師(これも実在の人物とする)による記録であるという仮定のもと、作品や作品間の分析なんかを楽しんでいる人たちです。

そういう、知的な遊びはいいんじゃないかなと思います。だけど、よりによってホームズを対象にするのはどうなんだろうと、ずっと思っていました。だって、コナン・ドイルは、半分嫌々ホームズ物を書いてたのは周知の事実ですから。

ですから、作品間で人物描写等に矛盾がある。そりゃ、嫌々書いていればそういうこともあるでしょうというのが一般人の感覚だと思います。だけど、シャーロキアンの人たちは、「合理的」な説明を求めようとする。

だいたい、ミステリっていうのは、何人か人が殺されたとかどうとかという程度の話で、そこでは何も起こっていないし、何も変わっていない。言ってしまえば、「無」を読んでるようなものです。禅的な意味ではミステリ好きな人たちはすごい人たちなのかもしれませんね。ただ、まっさらのノートを渡しても楽しく読むんじゃないかと思いますが。

SFの方で有名な話としては、Larry Nivenのリングワールド(邦訳は、早川書房、1985)のシリーズがあります。えーと、そのまえにダイソン球を確認してください。まぁ、ダイソン球にすると、熱の問題とかあるみたいですが。で、熱の問題だったか、技術か資源の問題だったという設定(というか作品内の仮説)で、例えば、太陽を巡る地球の公転軌道にぐるっとリングを作ったようなものがあったと想像してください。そういうリング上の世界を舞台にした小説です。

で、ある読者が計算したところ、この形状だとリングが安定しないことが分かりました。それを受けて、2作目だったかでは、安定させる機構もあるというように設定が追加されています。

シャーロキアンがやってることより、よっぽど知的な遊びだと思うのは私だけでしょうかね?