実際に見たり聞いたりしたことは無いが、刑事裁判では検察は「これこれを証明します」と言うそうだ。ここで「証明」という言葉を使うのはおかしいと思う。例えば、「検察が行なった証明の検証をお願いします」なら、まだ分かる。だが、「証明します」なのだ。つまり、検察として「証明できていること」を示すという事だ。

もし、「証明できている」ならば、裁判は必要ない。それが、「証明」という言葉の意味だ。だが、裁判が必要なのは、警察・検察が行なった「証明できているとする仮説」を、検証・検討するためだ。そういう検証・検討が必要な時点では、「証明できている」ことにはならない。昔の人のなんとか定理を証明したというニュースがたまにあるが、それらはすべて検証が必要なのと同じ事だ。

また、経済学にも「公理」があるらしい(プログラマにも分かる「アベノミクス」)。そこで経済学の公理というものを検索してみた。まぁ大雑把には経済理論の意味は何かに書かれている、「完全競争が成り立つとする」というようなものらしい。このページにはこのような一節がある。

例えば、数学。数学も経済学と同様、ある「前提」をおいて、そこから論理を積み重ねて様々な法則性を明らかにする学問である。

だがこう思う人もいるだろう。「数学の前提は経済学の「仮定」とは違って、常に成り立ってるものでしょ? 例えばユークリッド幾何学の公理(前提)『平行線の定理(平行線の錯角は等しい)』とか、絶対に正しいじゃん。」

しかし、ちょっと聞いて欲しい。いくらその公理が自明と言えども、あくまで「証明されていない」のだ。

そもそも公理は証明されるべきものではない。だって公理は「証明する必要がない事柄」であって、証明されたら公理じゃなくなるからだ。

[一段落略]

つまり、平行線の定理は、それこそ日常的な感覚から弾き出した結論であり、決して絶対、普遍的な事柄だとは言えない。早い話、公理とは「仮定」に過ぎないのだ。

まぁ、数学の公理も「仮定」なので、経済学における公理と大差ないのだという主張だ。

はっきり言って、勘違いも甚だしい。数学の公理は、「こういうルールを前提としてゲームをしようぜ」というものだ。ある公理の集まり(ルール)に基づけば、どういう体系が構築可能かという話だ(ややこしいことに、ある体系が充分に大きい/複雑だと、その体系が無矛盾であることを証明することは不可能であることが証明されている)。そこで設定するルールには、論理的に矛盾がない限り、こうでなければならないという制約はない。

それに対し、経済学における「公理」と称されるものは、経済のモデルを構築する際の、モデルを単純化するための制約に過ぎない。例えば、物理での自由落下の公式において、空気抵抗は無視してモデル化しようという際の、「空気抵抗は無視して」というものに相当する。それは公理とは呼ばない。ただの単純化であり、モデル化における制約だ。

まぁ、法廷用語の「証明」と数学用語の「証明」、経済学用語の「公理」と数学用語の「公理」で、それぞれどっちが先に存在していたのかは私は知らない。

もちろん、私は数学は専門じゃない。ただ、学部時代にコンピュータが万能計算機であることを、チューリングマシンというモデルを用いて数学的に証明させられた。音声では複素数やら線形モデルなんやらを使う。音声でも言語でも数学モデル、統計モデルを使う(最近流行りのビッグデータは、音声や言語では昔から常識だ)。計算モデルのλ計算なんか数学的モデルだ。なので、どうしても数学寄りに考える。

そこで思うのが、法律にせよ、経済学にせよ、「数学用語を使って、いかにも厳密・論理的であるかのような印象を与えようとしている」詐欺にしか思えない。もっとも、法律よりも経済学の方が少しマシかもしれない。議論において、数学的モデルを構築するからだ。ただ、その妥当性は検証のしようが無いのだが。

というわけで、裁判における「証明」という用語、経済学における「公理」は、別の言葉に置き換えて貰いたい。「思い込み証明」とか、「似非証明」とか「擬似証明」とか、「証明(恥)」とか。「思い込み公理」とか、「似非公理」とか「擬似公理」とか、「公理(恥)」とか。逆に、今まで置き換えられていないことが、それらの専門家の論理的思考の上限を示しているのかもしれない。