「英語は世界共通語ではありません」と書くと、「いや、英語こそが世界共通語だ」と声をあげる人もいると思います。しかし、現実として、世界共通語ではなく、民族語の一つに過ぎません。「英語が世界共通語でないという証拠を出せ」と言われるなら、「例えば、国際連合における公用語は何ですか?」と答えればそれで済みます(もっとも、公用語の選出が言語としてみると偏ってるよなぁと思わないでもありません。また、いずれ英語のみになる可能性はないわけではないでしょうが)。まぁ、作業言語は英語とフランス語ですが。でも、英語とフランス語なんですよね。

英語が民族語であるという点については、例えば、完了形において、なぜ"have"を使うのでしょうか? 理論的な説明はできません。民族語として成立する過程において、有標であることを示すために"have"が使われることになったとしか言えません。歴史的にそのようになったとしか言えません(現在の研究では、もしかしたら何か理屈があるのかも知れませんが)。言語というものは、極論すれば有標であることを示せればいいのですから。また、民族語であるが故に、ほかの言語を母語とする人にとっては、どうしても学習に時間がとられ、英語を母語とする人に対しては何らかの不利を背負わざるをえません。また、大昔から言われていますが、英語帝国主義といわれる問題もあります。英語帝国主義と言っていますが、英語という言語そのものが問題なのではありません。英語という特定の言語に限定されることが問題なのです。英語ではなく、日本語がその立場にあったとしても、同じ問題が生じます。民族語であるがゆえに、それを国際的に使うことを広く求めること自体に問題が含まれているわけです。

あ、それと、今の言語学というより語学学習関連の方面という方が適切かもしれませんが、そっちではどうなっているかは知らないという前提で。例えば、「完全なバイリンガル」(マルチリンガルでもいいですけど、話を単純にするためにバイリンガルとします)とはどういうものかを定義できるでしょうか? この際、そういう人が居るかどうかは気にしません。前提として、ここで想定する話者は、英語も日本語も不自由なく使えるとします。その上で、例えば、「私のコンピュータが壊れた」と話すとします。ここで、「コンピュータ」という単語は英語を起源とするものです(あー、それ以前の起源は無視します)。では、「私のコンピュータが〜」と喋る時に、「コンピュータ」の部分を"computer"と英語式に発音するのが、「完全なバイリンガル」なのでしょうか? しかし、「私のコンピュータが〜」と喋っている時には、日本語を話しているわけです。ならば、「コンピュータ」の部分も日本語式に話すのが「完全なバイリンガル」なのでしょうか? 最新の学術的研究ではどうなっているのかは知りません。ですが、この記事を読んでいる人に対しては言いますが、どちらなのか選べるものなら選んでみなさい。(あくまで個人的には、日本語式の発音に一票入れますけどね。)

では、現在、世界共通語は存在しないのでしょうか? 存在しません。「英語が世界共通語」という幻想が日本の一部の人の間においてのみ存在しているだけです。

では、世界共通語は存在しえないのでしょうか? 可能性はあります。たぶん、次の3つの可能性があるでしょう(並びに順位はありません。番号は便宜上の区別としてつけているだけです)。

1. 世界共通語としての人工言語を作る

人工言語として有名なのは、エスペラントでしょう。ザメンホフに対する思想的背景の深読みのしすぎと、日本においてはちょっと歴史的に傷がついたという問題がありますが、エスペラントを持ち出すのは、可能性としてはありでしょう。ただ、エスペラントの単語や文法は、英語寄りではありません。人工言語なので、こういう言い方が適当かどうかはわかりませんが、インド=ヨーロッパ語族に入ると言えないこともないでしょう。ですが、英語やドイツ語がゲルマン語派であるのに対して、エスペラントはイタリック語派寄りです。英語を勉強していたとしても、単語や文法の類推が効きにくいと言えるでしょう。ただ、エスペラントは習得が簡単と、昔の日本人も言ってはいます。

エスペラントを復活させるのが最良と言っているわけではありません。エスペラントという固有名を出してはいますが、そこは問題ではなく、人工言語という可能性を言っているだけです。

もちろん、仮に作ることになったとしても、どういう言語にするかという国際的な共通の認識が必要です。言語類型論あたりの話として、基本となる文法(英語のSVOに対して、日本語のSOVなどなど。あるいは屈折語、膠着語、孤立語、包合語などなど)としてどれを採用するか、基本となる単語としてどこの言語を参照するかなどなど問題は山のようにあります。

2. 自然言語に対して制約をかけた形の制約言語をつくる

英語をベースにするという話ではありませんが、手法としては、Basic Englishなどの手法です。ただ、Basic Englishはやりすぎです。たとえば、動詞がそもそもどういう概念を持っているのかについての、結構深い理解がないと、動詞を使えません。それはつまり文を作れないということになります。まぁ、別にBasic Englishを使うとしても、原理主義でない限りは好きなように850語の制限を飛び越えればいいだけの話ですが。

より現実的には、Plain Englishがあります。こちらは、人工言語や、Basic Englishほどにきっちりとしたものではありません。基本的には英文を書く際の心がけのようなものです。

まぁ、基にする言語として何を選ぶかについて、国際的な共通の認識は必要ですね。

3. 共通言語として認められる可能性が高い自然言語をどうにかして選ぶ

これも可能性の一つです。その結果、英語が選ばれるという可能性もあります。

ただし、どの言語が選ばれたにせよ、その時点から、民族語としてのその言語と、共通語としてのその言語は別物であるという認識を共有する方が無難でしょう。その言語を母語とする人たちの感覚や都合に左右されない方が良いでしょうから。

そういう意味では、死語であるラテン語を復活させても構わないわけです。まぁ、いつの時代のラテン語を採用するかは問題でしょう。ですが、例えば教会ラテン語を採用、あるいはそれをベースにするというのも可能性としてはありですね。

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ついでに言えば、共通言語を一つに限定しなければならない理由もありません。二、三の外国語を習得したってかまわないわけですし。自然言語と人工言語が、世界共通語の各々一つとして選ばれる可能性だって否定する必要はありません。

なんにせよ、日本において訳の分からない事を言っている人たちは、「英語が世界共通語だ」という考えが幻想でしかないという事実を認識するところから始めないといけませんね。