教育再生実行会議第3次提言より
3.学生を鍛え上げ社会に送り出す教育機能を強化する

えーと、この項目は大学教育についてのものですが、おそらく全体の根底にある考えが現れていると思います。まぁ、要は「展望や、知識・スキルは、教育によって身につけさせるものだ」ということかと。果たしてこの仮定ないし問題設定は妥当なものなのでしょうか?私は、根本的に誤ったものだと思います。

●展望について:
幼稚園の砂場で遊んでいる時に、ある疑問が浮かびました。その疑問自体は特別なものではなく、私が聞いた範囲ではありふれたものです。誰もが子供の頃に疑問に思ったことがあるようです。その疑問自体は、文字にすると日本語だと15文字に収まる程度のものです。ただし、あまりにも多義ですが。私の場合、その時以来、その疑問にとりつかれています。

展望とは、そういうものではないでしょうか。「現状を見て、設計しましょう」というものではない。とにかくやりたいことがあるから、そこから逆算するようなものです。私の場合、あまりにも多義だったので、何を選び何を捨てるかの連続でした。

●教育によって身につけさせるものだについて:
「教育によって身につけさせる」という認識が、そもそも誤りであり、傲慢です。

小学校からの英語教育の話題があるので、とりあえずその題材で。英語教員に限りませんが(日本語教員も当然含みます)、学生の疑問に対して、民族語ゆえの部分は最終的には「XX語だから」という答えしか出来ません。しかし、それ以外の部分、あるいは最終的にはに至る過程については可能な限り、「XX語の文法はこうだから」などの解答でお茶を濁すのは避けて欲しいものです。 そこでさっさとお茶を濁す教員については、私の場合、子供の頃からその段階で見切りをつけていました。まぁ、語学教員については何語の教員だろうと、言語学を専攻した学士から修士に準じる理解が欲しいところですね。

 これは、語学に限った話ではありません。例えば、「1+1はなぜ2になるのですか?」という質問に、「鉛筆を並べると〜」とか「そうなるでしょ」みたいな返答が返ってくる時点で、この人には質問をするだけの価値はないと判断していました(まぁ、小学生相手に1+1=2の証明を説明されても理解出来ませんが)。

追記(2013-Jun-07 02:05) ==== BEGIN
S.N.A.氏のコメントにより、「見切りをつける」、「価値がない」について書き方が良くないと思いましたので、補足します。

それらはあくまで教科について私個人の話であり、先生の教師としての技術・能力、人間性とはまったく別の話です。今でも尊敬している先生は何人もいます。

あ、でも、親父の先輩の先生が、入学から卒業まで私を呼ぶときに親父の名前で呼んでたのには参った。悪意でのことではありませんし、辛かったとかでもありません。何というか、身内が教壇に立ってるみたいで恥ずかしいというかなんというか。もちろん、今でもその先生は尊敬しています。私が、日常っぽいところを知ってる先生も何人もいたり。あれはあれで、学校でどうしたもんだかと思ったり。もちろん、その先生方も今でも尊敬しています。あ、これも余計な話だ(笑)。
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 まぁ、その意味で、教員の知識量とかどうでもいい話です。学ぶ側自身が早い段階で、「自分で学び、考えるものだ」と理解できるようにする方が良いのではないかと思います。こここそを課題とし、提言の内容とすべきです。

追記(2013-Jun-07 11:30) ==== BEGIN
ちょっと仕事で煮詰まったので、読み直してみたところ、『「教育によって身につけさせる」という認識が、そもそも誤りであり、傲慢です。』ってあたりに補足が必要かなと思ったので。

えーと、教師が何かを教えたとして、それを覚えるとか使えるようになるとかってのは、教師の側からはどうにもできないってことです。学ぶ側が覚えようとしなければ覚えられませんし、二次方程式の解の求め方を教わっても、連立方程式の解き方を教わっても、実際に自分でやってみないと結局のところよく分からないですよね。教える側は、学ぶ側を「分かった気分」にはできます。でもそこまでしかできません。教える側が、そこから先ができると思うのであれば、それは傲慢(いや、なんか違うか?)というものではないかと思います。脳にダイレクトに書き込みできれば話は別ですけど。そういう話です。
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もちろん、環境は必須です。この点だけは提言のとおりです。では、教育機関にどういう意味があるのか?「世界や知的世界はこんなにも広いのだ」ということを示すこと、「学ぶ方法はいくらでもある」ことを示すだけで充分です。大学であれば、講義は必要ありません。「この講義については、この50冊を読んでおけ」というリストを掲示板に貼るだけで充分です。ただし、学生の疑問については、とことんまで付き合いますが。

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私の場合、両親がとことんまで疑問に付き合ってくれました。付き合いきれないとなると、伯父に投げました。

伯父もまたとことんまで議論してくれました。もちろん、そもそも伯父の専門外だとか、議論が進んだ結果として伯父にも分からないことがあります。その時は、「私には分からない」と言ってくれました。「XX語だから」という返答で、説明した気になるよりははるかに誠実です。学ぶ側にしても、「分からないことだらけだ」ということが分かります。

また、議論が進むと、私の段階では理解できないことも当然出てきます。その場合、「こういう知的世界がある」ということを示してくれました。

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教育とはそういうものなのです。