議論が成り立つには、それがたとえ賛成派 vs 反対派であっても、知的程度や思想の程度が同程度でないといけない。そうでないと議論の形すら成り立たない。

仮に片方がお馬鹿なレベルだとしても、ともかく議論をするためには、もう片方はお馬鹿なレベルに合わせないといけない。もちろん、それは、傍目には議論のように見えても、人並みな方にとっては議論などと呼べるようなものではない。結果、お馬鹿なレベルの人にとっては、「相手は抽象論ばかり言っていてダメだ」と感じる。片や人並みなレベルの人にとっては、「こんなことを言っている場合じゃないのに」としか感じない。で、人並みの方がお馬鹿の土俵に降りてきているので、議論らしきものの結果としては、お馬鹿にとっては「論破w」とかってことになる。人並みな方にとっては、「話にならないのに、それが伝わらない」という無力感しか残らない。

ソクラテスが「無知の知」と言ったということだが、これは中学が高校で習ってるはず。人並みの人は、「自分がお馬鹿ではないか」と常に恐れている。だが、 お馬鹿な人は、肩書とか何とかを根拠に「自分はお馬鹿ではない」と思っている。議論のようなものをするときにどちらが不利か、考えるまでもないだろう。人並みな人は、常に「自分の言っていることは妥当なのか」と不安に駆られている。それに対して、「自分はまとも」と思っている人がお馬鹿なことを言ったらどうなるか。人並みの人は、お馬鹿が言ったこともまじめに検討して、自分が改めるべきは改める。繰り返すが、どちらが議論において不利なのかは明らかだ。

つまり、お馬鹿と議論をしてはいけないということだ。弁証法によって昇華することも望めない。

問題は、お馬鹿が役所もなにもかも含めて大多数を占めているという点だ。IQの考え方のベースには、IQは正規分布に従うという仮定がある。まぁIQはそうかもしれない。だが、お馬鹿は正規分布に従わない。人並みの人よりお馬鹿ははるかに多い。

私は、友人達と話す時は非常に心地いい。話が通じるからだ。抽象的な話、物理、数学、宇宙、計算機、雑学、もうなんでも話が通じる。この心地よさは何物にも代えがたい。

人並みの人がお馬鹿を相手に会話をすること自体、とんでもないストレスになっているということは、もっと知られていもいいと思う。まぁ、人並みの人が普通に話たら、お馬鹿な人には理解できないことしか出てこないだろうけど。馬鹿との議論は、無駄でしかない。優生学的に、お馬鹿は死刑だとか去勢・避妊をしていいと思う。人類の滅亡を避けるためにも、そうするしかない状況に、既になっていると思う。