以前、少し書いたような気もするけど、検索で出てこないなぁ。というわけで、そのあたりも含めて書きます。

えーと、神話とか昔話には、現在の人から見ると非合理的な話があったります。今どきはそういう考えは少ないのだろうなと思いますが、非合理的なところを見て、昔の人(有史以前とか、クロマニヨン人系列とかも含めて)の知的レベルが低かったからだという意見もあります。

私としては、そういう話でもなかろうと思っています。というわけで、人間の知力(?)を、「何を知っているのか&何を信じているのか」と、「どのように考えるのか」に分けて考えてみます。もっとも、そんなにすっぱり切り分けられるものじゃありません。例えばの話ですが、「知っている」の方は、Prologのプログラムに与える事実に相当するとしましょう。「どのように考えるのか」は、Prologのエンジンそのものの機構のようなものに相当するとしましょう。こんな単純な比喩であっても、「じゃぁ、Prologのプログラムのルールはどうなるんだ?」という疑問が湧いてきます。いやー、どっちなんでしょ。

ともかく、このように2つに分けるとします。何を知っているのかについては、昔と今とではまるで違います。ですが、どうも「どのように考えるのか」については、そんなに変わっていないのではないかと思っています。「どのように考えるのか」が変わっていなくても、「何を知っているのか」が違えば、何かを見た時にどのような結論に至るのかは当然異なります。例えばの話ですが、天動説の下であっても、観測に合うように精一杯頑張って理屈をつけていたわけです。まぁ、「どうもおかしいよなぁ」ということも発見されていたわけですが。でも、そのあたりもいろいろと「どのように考えていたのか」の問題ではないように思えます。「何を知っていたか&何を信じていたか」の問題ではないかと思うのです。単純に言えば、追求していた事自体は間違いない(その追求が教会によって禁じられていたりとかいろいろありますが、それについてはちょっと下で書きます)。で、その追求にあたってのどのように考えるのかは、変わりないようにしか思えない。

で、神話や昔話ですが、これは部族などなどによって違いがあるのでおおまかな話にしかなりませんが、ちょっと書いておきたいことがあります。神話や昔話は、部族などにおいて好き勝手に語られてきたというイメージを持っている人もいるかと思いますが、そういうものでもありません。語ることを許された人たち、あるいは語る権威を持った人たちが居ました。で、これについての素朴な感想として2種類あります。1つは、そういう人たちは伝えられた通りのものを語っていたというもの。もう一つは、そういう人たちも語り間違えたり、思いつきで内容や語り方を変えたというもの。まぁ、どちらもあながち間違いではないのですが。ですが、語ることを許された人たちは、語る内容と語り方についても変えることを許されていました。これは、好き勝手なことを語っていいという意味ではありません。大雑把に自分たちのバックボーンになるものですから、好き勝手に変えて良い訳がありません。では、なぜ変えることが許されていたのか? 単純な話で、どのように考えるのかを訓練されていたからです。語る内容や語り方を変えるとか、自分たちのバックボーンという言葉からは正史史観も連想されるかもしれませんが、それはまったくの別物。正史史観だと、目的に沿っての書き換えが基本だと思います。ですが、部族とかにおいて語ることが許された人たちは、思索によっての書き換えが基本と思ってください。さて、キリスト教の場合ですが、秘密部隊ってわけじゃないですが、考える人たちがなんだかんだ言っていました。そりゃ、居なければ異端審問そのものもできない(Monty Pythonのスペイン宗教裁判みたいなまぬけなわけがない。いや、まぁあんな感じと同列のマヌケも居たかもしれませんが)。まぁ、針の先の上で何人の天使が踊れるのかとかやってましたけど。考えることを禁止していたキリスト教でも、考える人達は内側にも外側にも居たわけです。聖書自体もちょこちょこ変更が入ってますし、変更ではなくても注釈はガンガンつけられています。

「何を知っているのか」というものは、単純な話としては教員の側からは「覚えてね」というものです。それに対して、「どのように考えるのか」については、これ、教員の側から学生に「頑張ってね」というだけでは無理です。

古代ギリシアの哲学者たちは、対話を重視していました。この記事を哲学者達と並べるつもりはありません。ですが、どのように考えるのかについては、対話を通した訓練以外に、身に付ける方法がないのではないかと思うのです。対話と言っても、古代ギリシアだったら対面か手紙でしょう。現在でも対面と手紙はありですが、他にも電話、電子メール、google Docsのドキュメントなどなどいろいろとあります。ともかく、対話・議論が行なわれること自体が必要です。昔の文壇や学会でも、雑誌や会誌をつかって、書簡を公開することで誌上討論とかやってました。そういうのも込みで。

対話・議論というと、コミュニケーション力とかを思い浮かべる人もいるかも知れませんが、そんなもんはどうでもいい。どのように考えるのかの訓練であり、自分の考えの誤りに気付く機会であり、弁証法的に少しでもましななにかに至る方法です。相手をやり込めるとかいうような、どうでもいい話はここでは無視しています(議論におけるオフェンスとディフェンスは、ディフェンス側が自分の知識と考え方が妥当であることを示すとこが目的なので、自分が自分のそれらを守れることを示せばいい。相手をやり込めるのとは全くの別物です)。

現在の教育現場では、この「どのように考えるのか」、およびそれを訓練するための対話が、あまりにも軽視されているように思えます。「何を知っているのか」と「どのように考えるのか」のどちらが人間の知性にとってより上位であるかという話ではありません。どちらも等しく必要です。ですが、現在の教育現場では「どのように考えるのか」の訓練があまりにも軽視されています。

で、やっと最近の教育あたりにつての話です。「反転授業」(に限りませんが)によるビデオ学習、デジタル教材による自学自習。まぁ「何を知っているのか」、つまり知っていることを増やすにはそれでも構わないと思います。ただ、そこ止まりでしょう。反転授業では、学校では学習が進んでいる生徒がそうでない生徒に教えるというようなことも想定されているようです。ですが、それは「何を言っているのか」の伝播に過ぎません。ですが、世の中、デジタル教材バンザイ、反転授業バンザイ、となっているように思えます。まぁ反転授業については、学校で教員と議論すればいいだけの話ですし、わざわざ反転授業という名前をつけなくても、家庭での学習って必要だよねということを言っているだけに過ぎないわけですが。反転授業あたりだと講義ビデオの配信なんてのもあります。対話の理想的な形としては、疑問に思うことがあった時に即座に質問できるというものを挙げられます。ビデオ配信では誰も答えてくれませんが。もっとも、タブレットでテレビ電話みたいなことやその他の方法で学校にせよ塾にせよ好きな時に対話はできます。まぁ話すだけでよければですが。「どのように考えるのか」を訓練することが念頭にない人たちに、どうやってそのあたりの指導をさせるのか? 答えは単純で、「無理、不可能」。

ともかく、最近教育業界で言われていることは、結局のところ「何を知っているのか」に関するものに偏っています。あるいは、教育とは、生徒の目の間にデータを流せばそれでいいという考えなのかも知れません。ですが、それは教育の、一側面しか見ていません。だからこそ、マヌケなデジタル教材とかが囃し立てられるのでしょうが。(私はデジタル教材には反対していません。現状のものは使い物にならないと言っているのみです。少なくtもアラン・ケイのDynabookくらいのものは実装して来ないと話にならないと考えています。)