某市にて、職員(部長クラス)を東北へ出向させる命令がどうたらという記事がありますが。

「命令」で人が動くと思っているんでしょうか? 組織というものはとか、組織の命令の伝達は云々という話はあるという前提で、その前提そのものがおかしいと思うわけです。ですが、それらが前提であり、それが普通なら、歪んだ世の中だなぁと思います。

 職務権限の上下関係なんてのは、ハンコを押すだけの関係です。あとは、上の人は音頭取りをするという程度。「命令」できるとかいう権限がある事自体がおかしい。先日Eテレで、退職後にボランティアに参加する人に、「前職は部長だった」とかいう理由で女性にコピーを取らせたり、「派閥を作ったり」する人が無視できない程度にいるとか。まぁコピーの方は、「使えないんだろうな」とも思いますが。なんにせよそういうのは、「職務上としてあった仕事」を「自分個人の権限」なんかと勘違いしているのでしょう。こういう人は、そもそも筒井康隆の小説にあった人生定年制を適用するのがいいと思いますが。

まぁ、規則や命令に従うのが楽だし、規則・命令・権限・役職で人に相対するのが楽なんでしょうね。自分自身でどうにかするという発想が抜け落ちてる。そういう、規則・命令・職権・役職と人格や能力はまったくの無関係だという発想がないのでしょう。

人類の脳容積は法律とか都市国家ができた一万年前から数千年前 あたりから比べると小さくなってるらしいです。 規則・命令・職権・役職に従っていたり使っていたりすると脳を使う必要がない。まぁ楽なのかもしれませんね。何が面白くて生きているのかは理解できませんが。 あるいは脳を使わない人にとっての成長や生き残りや子孫を残すことなどについての不利が少なくなっているからでしょうか。 まぁ、脳容積が400〜500cm^3の矮化人類(フローレンシエンシア)も 石器を使ってたらしいですから、直結するものでは ないのでしょうけど。

まぁ考えない人類にも苦労はあるみたいです。規則に従って、「楽しくもない」仕事をやっているとかいう類みたい。それ以外にも、単純な話として書きますが、能力的に問題がある方に近い人類の再生産なんてのもあります。H. G. ウェルズのタイムマシンじゃないですけど、知的な面でも少しずつ分離が始まっているんじゃないでしょうか? 知能テストの結果が実際にどうなっているのかを知りたいところではあります。