この記事で紹介しているMovesがどうのこうのという話ではないということをとりあえずまず書いておきます。
ここのところのウェアラブル機器とかスマートウォッチとかで言われているライフログって、ライフログって言い出した人の考えてたものからズレてる気がします。とりあえず言うなら、「ヴァイタルログ」という呼び方の方が良いような気がします。
ラ イフログのライフが「生命」とか「生きてる事」とかの意味なら、最近の使われ方でも構わないと思います。そういう意味も含んでいたのは当然ですが、どっち かというと「人生」という意味あいの方が強かったように思います。「人生の記録」が、脈拍や居場所の記録で良い、というか構わないのでしょうか? 何をしたか、何を感じたか、何を考えたか、そっちは置き去りで構わないのでしょうか? あるいは、その辺りはエディタとか、見たものはムービーやカメラ、聞いたものはレコーダで構わないということでしょうか? それらを統合しなくて構わないのでしょうか? 統合しましょうよ。
「こうあるべき」という考え方は好きではありません。なのでそういう言い方はしたくありません。
ただ、ライフログに限ったことではありませんが、20数年前から15年くらい前の間に、尖った研究者や製品、フィクションを通して、当時から見て未来を、そ れなりに今に近い世界を(もっと未来も)、見てしまっているという感じが強いのです。理念も込みで。刷り込みに近いかもしれません。
「理念も込みで」ということの影響がやはり強いのかもしれません。いくつか今ある製品を見て、「本当にそれはあれの後継者なのか?」と思う物も、まぁ実際にあ ります。世の中では「革新的」と言われている物の中にも、「20年前と何が違うの?」と思う物も、まぁ実際にあります。
例 えば、コンピュータ(タブレットも込みで)。こんなにアプリケーションに縛られた未来など、20年前には見ていません。これは当然使い方次第での話です。 ですが、今はもっとアプリケーションに介入できたはずです。例えば教育環境へのICTの導入(特に小中高)。20年前か15年前に見た未来のままじゃない かと思います。例えばデジタル教科書。アラン・ケイが言った(研究も続けられています)、Dynabookはそんなに不自由なものだったのか? どれもこれも誰かが言っていた理念をどこかに置き忘れて来ているという印象をどうしても拭えないのです。
これは私 の世代における呪いのようなものかもしれません。70年代には無闇矢鱈に明るい未来を見せられ、また同時に公害による暗い未来も見せられ、80年代以降は On The Edgeな未来を見て、そしてまた80年代以降は尖った理念を見て来ました。公害による暗い未来やOn The Edgeな未来を見ているとは言え、明るいとか理念とか、そもそもOn The Edgeな未来ですら、結局尖った未来を見続けて来ているのです。そりゃ、今はもっと尖っていたはずだと思ってしまいます。
もちろん、尖り続けている方々もいますし、尖り続けている理念もあります。ですが今の人達は、その尖ったものをどれほど見ているのでしょうか?