前にも同じようなことを書いたかもしれませんが。その際はご容赦ください。

さて、人間は考えているのでしょうか? 心理学や脳生理学、言語学などなどなどなどが対象にしているのは、原則として「考えている人間」です。

さて、チンパンジーの知的能力を測って、「これもできた」というような報告があります。ですが、それ、大体は「ほぼすべてのチンパンジーができた」ということとは限らない。「半数のチンパンジーが出来た」ということでもない。言ってみれば「特殊な個体において出来た」というようなものではなかろうかと思います。つまり、そのデータそのものがとんでもないバイアスがかかっているのかもしれない。

人間は自身をホモ・サピエンスとしています。「知恵のある人」というわけです。そこで「本当に?」という疑問が出てきます。ホモ・サピエンスと言い出した人達は、知的能力がかなり高い人達でしょう。自身をもってバイアスとなってしまっているということはないでしょうか?

おそらく1万年前とかから、Homo Sapience SavantとHomo Sapience Idiot (仏語が混じってるけど)に分かれ始めているのかもしれません。

脳は全員のカロリーの20%を平時でも使っているとか(20%は間違いかも。多いことには間違いありません)。狩猟採集でも渡りなどの経路、木の実などのありかなどなど、考えないと言えないことが降り掛かってくる。おまけに反射でどうこうするだけではなく、長老とかからの助言をもとに考える。強力な武器を持たず、持っているのは脳だけ。それをできるだけ使ったことでしょう。もちろん、栄養状態によって、充分にその性能を発揮できなかったということもあると思います。考えることが生き残る条件。そういう条件ではそういう人が子孫を残すのに有利だったかもしれません。

ところが、まぁ、1万年前の農耕の始まりで、原始農耕においては時期程度しか気にしなくてよくなった。その後、時期だけじゃなく天候、手入れを気にする必要は出てきましたが。

ともかく農耕により、一定のカロリーの確保が可能になり、かつ一定のカロリーを得られることにより、脳の性能を引きだすことは容易になったかもしれません。しかし、単純に言って考える必要性は減った。なぜなら農耕によって一定線は確保できるようになったから。とは言え一瞬にして脳が小規模化するわけではないので、余剰能力をつかって道具やいろいろなものを作ったり観察したりしてました。ですが、脳の働きとして高レベルのものを期待する必要はなくなった。

数千年前には文字と都市国家が現れました。実のところ文字は、文字としてどういうものを使うかは置いといて、「その言語にどういう音があるか」があるのかがある程度わかっていないと作れない。というわけで文字の発生は謎に包まれています。ヒエログリフなんかは読み方が特殊などで除外するとして(まぁ基本表音らしいですが)、漢字なんかは文字というよりwordですんで、なおさら面倒だったと思いますが。(まぁ普通の文字と漢字では使用目的も違うわけですが。)

さて、文字が発明されると記録をとれる。都市国家になると明文化された法律ができる。最近、「ぐぐればいいってもんじゃない」てなことを言われますが、まぁ似たような状況が現れたわけです(アクセスできる人は非常に限られていましたが)。

そうやって外部記憶に頼るようになった。扱う情報が格段に増えているかというと、実のところ普通は増えていません。ちょっとした手帳をどれくらいの期間で使いきりますか? 昔はどうだったかを考えてみます。個人で考え、覚え、書いておいたもののをメモしていた。これはたぶん今と量的にはともかく質的には同じくらい(今、結構多く書いている人と同じ。紙などが貴重だったという根本的な問題も関係して)。ですが、規則、法律を書き出すことにより、メモ書きする必要も、覚えとく必要もなくなっています(少なくなっています)。考える必要がない状況がここでも現れている。ここでも脳の余剰能力が生まれる。まぁ一部の事務職では余剰能力が存在しないか、使わない人が目につくかもしれません。

少なくとも二つの余剰能力がその後にどのように影響したでしょうか? どちらも余計事を考えず、「うまくいっている(ように思える)方法に従う」方がこのまれるかもしれません。すると余剰能力を使って何かをいていた人より、余剰能力を使わない人のほうが子孫を残しやすかったかもしれません。そもそも論てきに余剰能力を使っていた人は少数だったかもしれません。

そうすると、遺伝子プールには、余剰能力をもつDNAは残りにくかもしれません。なにせ不要な遺伝情報ですから。あるいはあくまでイレギュラー用として残っているのかもしれませんが。

宗教、社会制度、いずれも人間の行動規定するものです。それも普段は考えないですむように。それが人間の本質名の知れません。


その結果現れる世界は、Homo Sapience Idiotの世界です。そして、「すばらしき新世界」こそがHomo Sapience Idiotにとってのの理想郷であり、人間の叡智の一つの極限と思われるのでしょう。