SONYの最初のWALKMANでも、AppleのNewtonでも、PalmのPalmでも、AppleのiPodでもiPhoneでもiPadでも、googleのANDROIDでも、みな思想がある。

Mac OS X, iOS, ANDROIDには当然unixの思想も入っている。

技術には思想が必要である。思想がなければ技術を組み上げることはできない。そして、その技術を使うには、その思想を大まかにでも理解する必要がある。技術そのものや理屈を理解するのは極めて困難な場合もある。例えば大学の4年間をやり直す必要があるような場合も珍しくない。だが思想はそこまで困難ではない(いや、それ以上に大変な場合もあるが)。もし、思想を理解しないとすれば、あるいは理解できないとすれば…




思想はなにゆえ思想なのか? 変わらないからか? ある意味ではそうだ。だがその理解は全く間違っている。

言うならば、思想は思想ではない。メタ思想とでもいうべきものこそが思想だ。思想は変わる。変わらなければ生き残れない。だがメタ思想はできるなら変えたくない。それは思想そのものの変化であり、技術の有り様そのものを変えてしまうからだ。しかし、変えたくないだけであり、拒否はしない。そうやって変化を免れ、あるいは変化を受け入れ、その上で伝えらたものが思想として認められる。これは技術に限った話ではない。

だが、周りを見回すと、思想を思想と呼び、メタ思想など検討の範囲外になってしまっている。それでは思想を理解しているなどとは言えない。

スマートフォンなどの新機種の解説でよく目にするのは見た目の問題だろう。もちろん、そこにも思想はあるはずだ。だが、その見た目の奥に、もっと別の思想がある。そこに触れられる紹介記事は極めて少ない。見た目の問題についても、思想に触れられる場合は少ないように思う。あくまで見た目の違いがニュースとして大きな割合を占める。

アーサー・C・クラークの言葉で、「充分に発達した科学技術は、魔法と区別できない」というものがある。

思想を理解できない人達がいるとすれば、そういう人達は既に「魔法に満ち溢れた世界」に住んでいるのではないだろうか?




ところで一段落めで、なぜWALKMANを最初に挙げているのか? 電磁的記録を持ち歩きつつ使うという思想を打ち出したのはこれじゃなかろかと思うからです。携帯電話(あるいは自動車電話)もあったと思いますが、これはまだ通話という機能だけだと思うので。もちろん、そちらを無視するわけにもいきませんが。