日経サイエンス 2014年10月号, 日経サイエンス社, 2014.

この特集で、「センサー網が実現するESP」という記事、それとその中に「”存在”を再定義する」という項があります。


先日「マインズ・アイ[新装版]上・下」〔”The Mind’s I”〕を再読してたわけです。それでなんとなく思うところがあります。


「マ インズ・アイ[新装版]上」の「第4部 心はプログラム」に、「第13章 私はどこにいるのか? (ダニエル・デネット)」と、「第14章 私はどこにいたのか? (デイヴィド・サンフォード)」という章があります(この書き方だと孫引きになりますが、ご勘弁を)。日経サイエンスの特集は、どっちかというとマイン ズ・アイの第14章の方により直接的に関係すると思いますが。


今、改めて問われる問題になったというか、むしろやっと状況が追いついたというのか。




1980 年代前半から、MITのMedia Lab.(だったかな)では、”Talking Heads”というプロジェクトをやってました(gooleで検索してもいまいち引っかかりにくいです。素直に「画像」のリンク(だっけ?)の方に跳んで みてください。不気味な顔というかマスクが写ってる映像があれば、たぶんそれです)。MITでのそのプロジェクトも、今でもTelepresenceの研 究として続いているのかもしれませんが。当初は、受信側に物理的なマスクみたいなのがあって、送信側からの音声などが(目の動きや口の動きや表情も? いまいちどうだったのか覚えていませんが)、マスクで再現というか表現というかされているようなものでした。正直、そのギミックは「イマイチ、どうなんだ ろ」と思えるような不気味さがあったように思います。現在(?)は、映像のものになっているというか、もっと進んでいるのかもしれません。


マインズ・アイも1980年前半の本ですが、影響しあっていたのかどうかは分かりません。「MinskyがTelepresenceと呼んだ」というようなことは書いてあるので、両者にまったく影響がないとは思えませんが。




で、 ですね。普通のビデオ映像を映しての会話というのは、それなりに実現されているわけです。ビデオ通話もそれらに含まれるとは思いますが、日経サイエンスの 特集でも、「マインズ・アイ」の「第14章 私はどこにいたのか?」でも、もっと踏み込んだ話になっているように思います。「存在」という事、そのものに踏み込んでいるように思います(あれ? 「事」なのに、「そのもの」というのは何かおかしな気もするけど)。


実 際、Telepresenceの技術を使って通話、あるいは機器の操作などをした場合、私はどこにいることになるのでしょう? 「マインズ・アイ」に書いてあるように、結局、「私がどこにいると思ったのか」ということなのかなとも思いますが。ですが、だとすると、完全に並行しての 認識、認知とか理解はどうなのかは分かりませんが、時分割しての、「私がどこにいるのか」の認識とかはできそうな気がします。あとで思い出すときにややこ しくはなるかもしれませんが。




た だ、まぁ、そうすると、たとえばある時間の範囲内を繰り返すような時間物(Replayとか他にもいろいろ)のフィクションにおいて、場合によっては「人 間は、そういう重なった記憶を持つことは困難」と設定されることもあります。それはそうなのかもしれません。ですが、Telepresenceにおいて、 そういうことが可能であるとするなら、時間物において、そんなにきつく困難とする理由もないようにも思います。


もっとも、極めて根本の、というか大量の情報やチャンネルを使ったTelepresenceを用いた場合には、実際に人間が視点を頻繁に変えても、その事を本人が処理できるのかどうかは分からないのかもしれません。




あるいは、無人機を遠隔操作してる人も、無人機がやられるとそれなりのショックは受けるらしいですね。あくまで気分としてということらしいですが。では、大量の情報というかチャンネルで繋がった無人機、というかロボットがやられたらどう感じるのでしょうか?




まぁ、そんなこと思いましたので、メモっときます。