あちこちの神話では、テキスト上においてその比較的早い時点で、何かと何かを分けるという話が入っています。

現 実世界も、あちこちで何かと何かを分けるという行為を行なっています。某テーマパークでは、日常と切り離されていることを売りにしています。某テーマパー クだけでなく、一般のテーマパーク、アミュージュメントパーク、遊園地、一括で同じでしょう。快や楽(このstoryでは”楽”はあくまで”楽しい”とい う意味で使います)と、通常とを分けているでしょう。

宗教においては、死と生(彼岸と此岸)であり、聖や尊と俗でしょう。

美術館においては美と俗を。

博物館、学校では学と俗を。

法律などによっては悪と正を。

さ て、では分けられた末に残ったここには、実際何が残っているのでしょうか? 快や楽ではなく、聖や尊でもなく、美でもなく、学でもない。残るのは生と俗と正です。いえ、その俗に実際に何が残っているのか? 生しか残っていないでしょう。正についてはどうか? 法律あたりを基にする限り、そもそも正の定義が悪でないこととしか定義できないでしょう。ならばその正はnullです。

分割の結果、日常には生きることだけが残ります。生きることの中に楽しさを見出すことが正しいありようだと。

おそらく、それこそが「正しい日常」なのでしょう。

ですが、私はそのようなあり方を否定します。日常は楽しくあれ、尊くあれ、美に―少なくとも―触れられるものであれ、学ぶものであれ、正しさは自分できめるものであれ。

なぜ、人間はそういう生き方を放棄した、あるいは放逐したのでしょうか? キリスト教においては、人生は役務であるという基本的な考え方があります。つまり、人生は楽しくあったりしてはならないのです。これは、世界中に影響を与えている考え方でしょう。

ですが、私はそのようなあり方を否定します。楽しくなくてなんの人生でしょうか。これは私が物狂徒(唯物論者)だからかもしれませんが。


ところで、日本SF展といくらの醤油漬け(まついなつ)という記事があります。そこで指定されていることとして、「セックスの匂いが希薄」というものがあります「セックス」ではなう「恋愛」でも「人間関係」でも「生活」でも同じようなものなのかもしれません。ですがそれらに比べてもセックスは弱いかもしれません。

私 は、セックスや恋愛や生活よりも重要な事があると考えていますので、著者(まついなつ)には賛成はできません。ですが、あくまで一つのサンプルではありま すが、生活という回し車を回し続けること、生活や組織という擬似永久機関を回し続けようとすること、それが否定出来ない割合の人間にとっての現実なので しょう。


面倒なことを言わずとも、告白したあと別れただの、そんなことが列挙されているだけのものを読んで面白いのかと思いますが。


閑話休題

そ れからもう一つ。人間は群れを作る動物です。つまりリーダーがいるということです。私は人間のそのような本性も否定します。人間はもうそこを通り過ぎた生 き物だと思うからです。それを可能にする技術も手に入れています。そしてそれに基づく階層構造も否定します。肩書による階層構造は意味をなしません。い や、意味はあるのかもしれませんが、私にはどういう意味があるのか理解できません。

人間はヒトの一つであろうとしていい頃ではないでしょうか(あるいはもう遅いのかも)。

-wl/sk/hm