ANTHROPOMORPHISM: FROM ELIZA TO TERMINATOR 2", Abbe Don (and other panelists), CHI’ 92, pp. 67–70, ACM CHI(かな?), 1992.




先日、「ブルースクリーンに表示されるテキストのオリジナル版はスティーブ・バルマーが書いたものだった」という記事がありました。まぁ、これは誤報とのことですが。

先頭に挙げた”Anthropomorphism”の記事に、ちょっと興味をひく記述がありました。MSとは関係ないと思いますが、Ben Shneidermanが”Designing the User Interface: Strategies for Effective Human-Computer Interaction”という本で、こう述べているそうです。

anthropomorphism的なタブーは、「エラーメッセージにおいて一人称を用いてはならない」というようなものである。Ben Shneidermanは、代名詞の使用も避けるように言っている。たとえば、”To begin the lesson, press return”の方が”I will begin the lesson when you press return”よりも好ましい。

というような感じです。私は、Ben Shneidermanの本を読んだ事は多分ありません。

とは言え、結局、今の計算機が”I”を使っていないのは、当時の、そして当時からの感覚と慣習によるものでしかないのかもしれません。機能だとか性能だとかという話ではなく。

さて、そのような慣習があることは意味のあることなのでしょうか? 例えば、単純な話として、計算機が「私は」と言い出したら、人間は困惑するとか。あるいは、困惑するとしたら、それは人間が計算機との間に何か違いがあると判断しているからなのでしょうか? それとも、その困惑は、慣習がもたらしたものに過ぎないのでしょうか?

ですが、そのような慣習があるおかげで、改めて、「計算機はいつ”I”と言うのだろう?」という事柄を考える事ができます。まぁ、プログラムをそう書くか書かないかだけの話といえばそうですが。書くか書かないかをいつ、どうやって人間は判断をするのでしょうか?

Singularityに到達したらでしょうか? それとも、そこまで―それは近いのかもしれませんが―待つ必要があるのでしょうか? 仮に待つとして、Singularityに到達したと、どうやって人間が判断するのでしょうか? あるいは計算機が勝手に「到達した」と宣言するのでしょうか? それとも、単に慣習を無視して誰かが”I”などを使うだけの話なのでしょうか(もうあるのかもしれませんが)。

慣習に基づくにせよ、人間の何らかの感覚に基づくにせよ、現在、私達は計算機が”I”と言うのには(多分)慣れていません。どのような条件が揃えば、受け入れられるのでしょうか? やはりSingularityが鍵なのでしょうか? あるいは、それは単に見た目としてのエージェント(あるいはアヴァターとか)が現れれば十分に納得できるものなのでしょうか? それとも、単にエージェントが現れるだけではなく、充分に人間的―擬人化した動物だろうと―に思えるような表情、口調、身振りが必要なのでしょうか? 逆に、Singularityは問題ではなく、見た目として充分に人間的なら構わないのでしょうか?

計算機はいつ”I”と言うのでしょうか?

計算機にいつ”I”と言わせるのでしょうか?

まぁ、単に慣れの問題でしかないのかもしれません。

-wl/sk/hm