とは言っても、コンピュータにアップロードすとか、そういう話ではありません。


コンピュータに関連して言えば、人工知能がいずれ到達するであろうSigularityについて考えてみます。そこにはたぶん知性があるとみなされるでしょう。

だとすれば、知性というのは人間の脳という媒体に依存するものではないのでしょう。



では、人間という存在は、生物という媒体に依存するのでしょうか?

ちょっと言い方がよくありませんね。生物という媒体において人間であっても構いません。

ですが、生物という媒体を用いていることで人間を定義できるのでしょうか?


人間が生物という媒体において定義されていないとするならば、それは他のあり方を知らないからだけではないでしょうか?

Singularityに到達した人工知能に、人格や人権が認められないとは考えにくいと思います―認められない理由があるでしょうか?

そうなった場合、では何を持って人間を定義するのでしょうか? 以前から使っている言葉ですが、ここで改めてヒトという言葉を使いましょう。

ならば、「人間」は生物を媒体とする定義としても構いません。では「ヒト」であることは何をもって定義する―あるいは認める―のでしょうか?

問題はここです。生物種としての人間と、他のあり方もあるであろうヒトとをどこで、どうやって区別するのでしょうか?

「生物種以外の『ヒト』というものを認める必要はない」という議論は不要です。計算機がSingularityに到達しうる可能性を、少なくともこの議論では認めてしまっているからです。

人間はいつヒトになるのでしょうか?

人間はヒトになりえないのでしょうか?



なりえない可能性についての根拠もあります。

「なぜ宇宙人は見つからないのか?」

それが答えです。この答えに、さらに答えるなら、ヒトに―それがどういうものであれ―なりえず、文明を発展させられなかったから、あるいは自滅したから。単純な話です。


人間はヒトになりえるのでしょうか?

-hm/wl/sk