ワークライフバランスなんてのがあります。少し次に挙げるものの下の方でも書きましたが。
なぜ日曜日があるのでしょうか? (この書き方はちょっとおかしいですし、日曜日に限った話でもありませんが。) なぜ8時間労働とかワークライフバランスとか言われるのか?
奴隷に対してどうしてそういう扱いをするのかといえば、単純に昔よりえらくコストがかかるからというだけでしょう。奴隷でなくても、モダンタイムスでチャップリンが演じているような労働者でも同じです。
逆方向から見ると、ワークライフバランスとか言っている人は、自分でこう宣言していることになるのではないでしょうか。
ここから、考えなおす必要があるのではないでしょうか?
あなたが世の中に提供できるのは、それが肉体的であれ知的であれ、労力なのでしょうか? もしそうなら、まず奴隷やロボット未満であることを受け入れましょう。労働者の権利というのは、そこを認めたところから発生します。そこを認めないのであれば、労働者の権利という概念自体、そもそも発生しないでしょう。
これに対して、「人間なのだから」とか「人間らしい」という反論もあるでしょう。ですが、話は単純です。「あなた方は人間ではない。それを自身で認めてるでしょ。」
さらには「退職したら」という類のも、現状を「苦役の期間」と考えてるわけですよね? キリスト教的な人生観です。そういう考え方はどうなんだろうなと思います。
労働者の権利が発生しない社会はあるのでしょうか。まぁあるわけですけど。能力、才能を提供しあう社会です。そんな当たり前の社会とか世の中が、現状は少し遠い。その理由は簡単です。それは…
-wl/sk/hm
なぜ日曜日があるのでしょうか? (この書き方はちょっとおかしいですし、日曜日に限った話でもありませんが。) なぜ8時間労働とかワークライフバランスとか言われるのか?
それは奴隷を過度に疲弊、あるいは消耗品にしないためです。
奴隷に対してどうしてそういう扱いをするのかといえば、単純に昔よりえらくコストがかかるからというだけでしょう。奴隷でなくても、モダンタイムスでチャップリンが演じているような労働者でも同じです。
逆方向から見ると、ワークライフバランスとか言っている人は、自分でこう宣言していることになるのではないでしょうか。
私は奴隷です。なので守ってください。
ここから、考えなおす必要があるのではないでしょうか?
あなたが世の中に提供できるのは、それが肉体的であれ知的であれ、労力なのでしょうか? もしそうなら、まず奴隷やロボット未満であることを受け入れましょう。労働者の権利というのは、そこを認めたところから発生します。そこを認めないのであれば、労働者の権利という概念自体、そもそも発生しないでしょう。
これに対して、「人間なのだから」とか「人間らしい」という反論もあるでしょう。ですが、話は単純です。「あなた方は人間ではない。それを自身で認めてるでしょ。」
さらには「退職したら」という類のも、現状を「苦役の期間」と考えてるわけですよね? キリスト教的な人生観です。そういう考え方はどうなんだろうなと思います。
労働者の権利が発生しない社会はあるのでしょうか。まぁあるわけですけど。能力、才能を提供しあう社会です。そんな当たり前の社会とか世の中が、現状は少し遠い。その理由は簡単です。それは…
-wl/sk/hm
あなたは、自分が「知の奴隷」であることを
認めて誇るべきです。他人様を貶めても、自分の価値は上がりません。
以下理由。
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使用者の視点で見れば、労働者は生産性において「奴隷やロボットにも劣る存在」です。壊さないように気をつけなければならないからね。
でも、使用者でないあなたが、なぜ使用者視点だけで論じてるのでしょうか。研究職も教職も使用者ではなく、雇用されてる側…つまり労働者ですよね。
研究職はワークライフバランスで捉えられない分があるのは事実だと私は思う。優れた研究者に時々オンオフがないのも仄聞すします。
でも、公私なく作業に没頭している人間なんて、肉体労働だろうが知的作業だろうが、他人から見て「何かの奴隷」です。
社畜や仕事中毒の人は、やりがいや意義、知的好奇心…様々なものを没頭の理由にしますが、そういうのを「奴隷の首輪自慢」といいます。
「ワークライフバランスは奴隷のもの」などという理屈をこねても、研究職たる自らを奴隷だと認めたくないことの強がりや、一般人に対する優越感の希求にしか見えないわけです。
(知の)奴隷である自分を素直に認めて、その上で誇ればいいと私は思いますよ。
幼稚な理屈で社会に遍くいる労働者を貶めるよりは、確実に尊敬されますよ。