読書メモ

科学って何だろ?

「真空の海に帆をあげて(アシモフの科学エッセイ<12>)」, アイザック・アシモフ(山高 昭 訳), 早川書房, 1988.

この中で、「58 焦点を鮮明に」の最後にこういう一節があります。

    宇宙の全般について、われわれはどれだけ多くのことを学ぶだろうか―その起源、発展、予想される終末について? われわれが何を発見するかは、予想もつかないのである。

    ほんとうを言えば、それこそが胸のおどることなのだ。新しい発見の本質が予測できるものならば、どうして手間をかけて実行することがあろうか?


たまに(?)、わからないことにお金をかけることは無駄と言っているような意見に会うことがあります。

実際、この社会という永久機関―それが幻想だとしても―を回し続けること以上に重要なことがあるでしょうか? それが実現された時期および地域がありました。ヨーロッパの中世の暗黒時代、ルネッサンスの前です。その当時も当然イスラムの方で科学技術が発達したりはしていましたが。日本の江戸時代は、実はその時代のヨーロッパほどに変化が少なかったわけではないようです。

異論もあると思いますが、とりあえずその時代から話を始めます。社会の変化も、科学技術の変化も、永久機関的な社会を回す事に対しての余剰のものを使って行なわれたのでしょう。

その余剰のものとは、「予測できないことを調べる」ことでしょう(他にも芸術の方面とかありますが、そっちでも幾何とかが発達あるいは応用されてます)。

今、「予測できないことを調べる」ことをやめたとしましょう。今の生活水準を維持できるでしょうか? できるかもしれません。ですが、資源の限界が見えている現在、今の生活水準が50年維持できると考えるのであれば、おそらく極めて楽観的と言えるでしょう。おそらくは100年程度で、運が良ければ江戸時代くらいの社会、おそらくは暗黒時代に戻るでしょう。社会を支える資源がないのですから、そこまで戻ってしまうことは不可避と考えられるでしょう。

2, 3回書いておいたと思いますが、人間は火を手に入れた時からカウントダウンが始まっていることを思い出す必要があります。何度か、カウントダウンを止め、宇宙への興味も医学への興味も捨てる機会がありました。ですが、その機会を人間は放棄しました。あとは、カウントダウンを認めるしかありません。

現代社会を永久機関的に維持しようという努力は虚しいものです。それは不可能だからです。

もし、暗黒時代を避けたいのであれば、「予測できないことを調べる」ことをやめることはできません。カウントダウンが進んでいる以上、「予測できないことを調べる」ことに関しての重要さをますます知らざるを得ません。他に方法はないのですから。

現在、文科省においても社会においても研究が軽く見られている(日本だけかもしれませんが)のは仕方がありません。永久機関的社会―もちろんそれは幻想―を維持するので精一杯なのかもしれませんから。


夢野久作という作家がおりまして、江戸川乱歩らとともに日本において虚構文学を確立するのに一役買った人です。このペンネーム、地域の言葉で「ゆめのきゅうさくのごた言っとる」みたいな言われ方から取ったそうです。「夢のような馬鹿げた事を言っている」というような意味らしいです。

「予測できないことを調べる」、夢野久作になりましょう。社会の維持は、夢野久作になりたくない人に任せましょう。そして夢野久作になりたくない人は、夢野久作の邪魔をしないようにしましょう。

夢野久作になりたい人がいない社会は、あるいは夢野久作である部分を持つ人がいない社会は、あるいは夢野久作である部分を持つことを否定する社会は、おそらくカウントダウンが進んでいることを意識することも無いでしょう。それはそれで幸せな社会でしょう。

ですが、私はそういう社会には賛成できません。そういう社会は遠くない未来において、維持できないことがはっきりしているからです。誰に聞いても構いません。そういう答えが帰って来るでしょう。

-wl/sk/hm

理系思考

―分からないから面白い―, 元村 有希子, 毎日新聞社, 2007.

発行されてすぐに買っていたのですが、ほったらかしでした。先日、発掘し、ちょっと読んでいます。読み終わっていませんけど。

例えば、「水兵リーベの悲劇」(pp.39-44)なんかに、こんな記述があります。

そんな私が科学・技術を専ら取材するようになったのは皮肉な話だが、大人になって科学と再会したとき、目からうろこが落ちるおもいをした。

それは、研究者が「分からない」という言葉をいとも簡単に口にすることだった。

考えてみれば、分からないから面白いのだ。分からないことが分かるようになることを発見と呼んだり発明と言ったりもする。そもそもすべてが分かってしまえば、研究者は失業してしまう。技術者だって一部しか生き残れなくなるだろう。

かろうじて研究者としての立場として言えば、そうです。研究者は、分からないと平気で言います。分からないから研究しているわけですから。

しかし、卒業研究なんかに来る学生にとっては、先生が「分からない」というと、不安になる人もいるらしいです。分からないからやるんだということ自体を理解していないのかもしれません。あるいは、分からないという状態を維持する事自体に不慣れだったりするのかなという印象もあります。卒業研究も、具体的にどうやったらいいのか、どういう結果が得られるのか、そういうものを模索しながら、一年なり半年なりかけてやっていくわけです。学生実験みたいに、やることも答えもはっきりしていることをやるわけではありません。そういう、先が見えない状態は、まぁそれは確かに不安でしょうけど。以前書いたマニュアル化の問題なんかも関係しているのかもしれません。

また、「科学技術を鍛える」(pp.14-18)には、こんな記述があります。
こんな生徒はごく一部で、多くの教師や生徒は成績や教科の好き嫌いだけで文理を決め、疑いもしない。さらに悪いことに、文系か理系かを一度決めてしまうと、進路変更はほとんど不可能だ。
まぁ、何と言いましょうか。別に「(ほとんど)不可能」ではありません。私も、学部からずっと工学系で来ていますが、修士に入るときには文系(心理系ですけど)に行くことも考えました。工学部からの文転では基礎的なところを勉強する機会があった方がいいだろうということか、そもそも「こいつは修士に入る力量があるのか?」と思われたのか、それは分かりませんが、ともかく、一回研究生をやってからという条件付きではありますが、受け入れても構わないという返事を頂いたことがあります。(研究生自体、その先生のところで受け入れOKという返事を頂いていました。いろいろと考えて、「こちらから言っておいて申し訳ありません」ということになりましたが。)

私の場合、工学系単科大学だったので、転学部という選択肢はありませんでしたが、総合大学なら、それも可能でしょう。

要は本人の気持ち次第だと思います。

で、私は今も工学系(センターと学科・専攻の兼務ですが)に居るわけですが、ちょっと前のエントリなんかを見てもらえば、まぁ分かる人には分かるかなという感じで、理系なんだか文系なんだか分からないことをやっていたりします。結局、学歴・職歴としては理系(工学)でずっと来ているわけですが、やりたいことをやるには別に理系も文系も関係ありませんから。自分の気持ち次第です。

好奇心や興味を持ちつづけるとか、好奇心や興味を広く持つとか、結局は本人の気持ち次第だと思います。

私の感覚からすれば、世の中で、そんなに文理が分離しているとしたら(笑)、その方が変です。もっとも、そんなことを言えるのも、情報系だからかもしれませんけれど。

Kindle解体新書

スティーブン・ウィンドウォーカー, 倉骨 彰(訳), 日経BP社, 2010〔The Complete User's Guide to the Amazing Amazon Kindle 2, Stephen Windwalker, Harvard Perspectives Press, 2008, 2009〕.

解体新書とか、Completeとか言う割には、あまり大したことはありません。いや、解体新書だったらこんなものでもいいのかな?

PGのMagic Catalogはいいなぁ。これまでもPGにはお世話になっていますけど。

日本訳で追加されてるコラムだと思いますが、「青空キンドル」も便利かも。

あと、電子書籍管理ソフトCalibreは便利そうですね。さっそくインストールしてみました。

これは本書とは関係ありませんが、Kindleのファームと言うのかOSというか、そのあたりがアップデートされるらしいです。ver 2.5だとか。twitterに対応(?)とかあるので、どうなるんでしょうね?

Google英文ライティング

―英語がどんどん書けるようになる本―, 遠田 和子, 講談社インターナショナル (2009).

Webが普及して、でっかいコーパスが目の前にある。Googleという性能の良い検索ツールもある。それなら、英作文にそれらを活用しよう。という趣旨の本です。

辞書や文法書をWebとGoogleで置き換えようという乱暴な本ではありません。これまでは辞書と文法書だけが頼りだったけど、WebとGoogleも合わせて活用しようというものです。

辞書と文法書に対して、WebとGoogleの強みは何かと言えば、共起関係を容易にかつ大量に見ることができる点です。Collins COUBUILDなんかは、コーパスから得た頻度順に説明が書かれていたりしますが、言葉は独立した単語あるいは独立した単語の組み合わせで成り立っているものではありません。互いに関連する共起関係が、言葉の自然さや分かり易さに大きく影響します。そこのところを、WebとGoogleを使って補完しようというものです。

まぁ、気になるところとしては、次のような点あたりでしょうか。

  1. どれくらいのページ数がヒットすれば、とりあえず安心なのか?
  2. 場面(たとえばフォーマルなものとそうでないもの)に応じた言い回しをどう選ぶのか?
  3. 検索結果の信頼性はどうなのか?
1つめについては、「万単位のページがヒットすれば」と言うようなことが書いてあります。数万くらいでしょうか。2つめについては、共起である程度判断するというような例がありました。3つめについては、検索対象のトップレベル・ドメインやセカンドレベル・ドメインあたりを、"edu"とか"ac.uk"とかに制限してやればというようなことが書いてあります。

書かれていること自体は平易なのですが、実行するとなると実際には英語の実力がそこそこないと難しいかもしれないのではないでしょうか。

ロシア・フォルマリズム

Michel Aucouturier, 桑野 隆, 赤塚 若樹, 白水社 (1996).
原題 Le formalisme russe (Collection QUE SAIS-JE? No 2880),  Presses Universitaires de France.

ちょっと研究に関連のある人の背景を知りたいと思い、その基礎的な勉強のために読みました。

本書では、ロシア・フォルマリズムの担い手であった「オポヤズ」というグループについて紹介/解説されています。オポヤズは1916〜1917年頃から、1930年頃まで活動が続いたらしい。

もちろん、ロシア・フォルマリズムと構造主義は強い関連があるのだが、それはロマン・ヤーコブソンに負う所がおそらく多いかもしれません。

オポヤズは、「詩的言語」という概念を提案していました。これは、「文学的素材に固有の特性にもとづく、自立した文学にかんする学を生みだそうとする志向」とともに、「文学にかんする学を打ち建てるにあたっての原則、すなわち文学にかんする学の内容、基本的な研究対象」として提案されているものでした。現在も言語の詩的機能、あるいは美的機能と言われますが、これの起原なのかな? その後、詩的言語と散文言語との差異についての様々な議論が紹介されています。ところで、「ザーウミ言語」というのは、例えばの話としては、山下洋輔、タモリや坂田明のハナモゲラみたいなものなんでしょうか?

その後、「手法」と「主人公」の話になります。ロシアの文学史においては(そして多分、それ以外の国と地域でも)、「主人公」という概念が重要な場所を占めてきたが、「手法」という概念がそれに取って代わると言う。

また、「シュジェート」(p. 36)という概念は、ちょうどそんな関係に名前が欲しかったので、ちょうどいい具合に勉強になりました。「シュジェートの構成の手法」としての階段状の構成と引き延ばしの法則というのは参考になりました。また、文学がもともと「物語的」なものか、あるいは「模倣的」なものか、という話も出てきます。「スカース」(p. 37)という言葉は、私はわざわざ使わなくてもいいかも。ところで、「模倣的」というあたりは、R. カイヨワの「遊びと人間(原著発行 1958)」にある、アゴーン、アレア、ミミクリー、イリンクスのなかのミミクリーなんかと関係するのでしょうか。話はズレますが、カイヨワは2つの軸での遊びの分類を試みています。一つはパイディア(気まぐれ)の軸、もう一つはルドゥス(努力が必要なもの)。

「シュジェート」と「ファーブラ」の区別(p. 46)というのも重要かもしれません。

また、「異化」を重要視してもいたそうです。でもそれを言ったら、芸術はすべて「異化」を重要視しているような気もします。

これまでの所で、何か所か、バルトのテクストっぽい概念が既に現れていることも分かりました。

最後は、オポヤズの最期について紹介されています。

しかし、そうか…、あの人はロシア・フォルマリズムの範疇には入らないのか…

意味不明でしょうが、大変勉強になった一冊でした。

学歴分断社会

吉川 徹, ちくま新書(772), 2009.

著者は、「日本人の多くが、学歴の上下を表立って口にすることを、長い間『タブー』だと信じ込まされてきた」という。そして、学歴を切り口に、格差社会と呼ばれる現代社会を分析している。

著者は、学歴を二層に分けている。一つは大卒層であり、これには博士卒、修士卒、四大卒、短大卒、高専卒が含まれる。もう一つは高卒層であり、こちらには専門卒、高卒と中卒が含まれる。

現在、大学全入時代と言われるが、大学進学率で言えばおよそ50%である。これは高卒層がそもそも大学への進学を希望していないためである。親子の世代間での大卒層と高卒層を比較すると、昔は親=高卒層-子=大卒層という割合が高かったが、現在では、親=大卒層-子=大卒層、あるいは親=高卒層-子=高卒層という、学歴の分断が起きているという。ただし、この分断は絶対的なものではなく、親=大卒層-子=高卒層のような入れ替えも存在している。つまり、先にも書いたが、大学に行けないのではなく、大学に行かないことを選択している高卒層が決して少なくないという。この、大学へ進学しないことを自ら選択する人々が50%もいるということには驚きを感じた。

しかし、そうした高卒層の就労環境はどうかといえば、はっきり言ってあまりよいものではない。給与、待遇、就職・転職時に使えるカードなど、大卒層と高卒層では大きな差があるという。だが、著者は、「だから大卒層になれ」とは言わない。

学歴の分断は、別の言い方をすれば学歴の継承であり、ある意味においてライフスタイルの継承とも言える。著者は、子供が全員高卒層である人へのインタビューから、「子供が近くに住んでいてくれてうれしい」というような発言を得ている。親と子で学歴層が異なれば、ライフスタイルもおそらくは異なるであろうし、ライフスタイルが異なれば、文化などの継承にも問題が出てくるだろう。

著者が最後に提言しているのは、異なる学歴層の人々による共生である。会社などの採用時には、大卒層と高卒層の採用比率を法で定めるとか、あるいは仕事その物の役割分担である。

それが格差社会の解消になるのかどうかはわからないが、面白く読ませてもらった。

セマンティックHTML/XHTML

神崎 正英, 毎日コミュニケーションズ, 2009.

まだ、1/3くらいしか読んでいませんが、今の時点での感想をメモっておきます。

「XMLじゃなくても、HTML/XHTMLでもセマンティックwebは出きるじゃん。マイクロフォーマットもあるんだし」というような内容かなと。

メタデータの記述について、著者は「主語-述語-目的語」という言い方をしています。多分、元ネタになっている資料でSubject-Predicate-Objectというような書かれ方がされてるんだと思います。ただ、「構造、コンテンツ、属性」的な考え方に慣れていると、「主語-述語-目的語」というよりも、「実体/対象/コンテンツ-属性-値」と考えた方が、著者が言いたいことや例を理解しやすいかなと思いました。

それにしても、足踏みしている間にマイクロフォーマットが出来ちゃったというか、広まっちゃったんだよなぁ。賢い人が先回りして環境を整えておいてくれたと考えることにしましょう。

多読術

松岡 正剛, 筑摩書房(ちくまプリマー新書), 2009.

インタビュー形式で、松岡さんの読書感・読書法が書かれている。

内容を大雑把に要約すると、「もっと気楽に、もっと自由に、もっとアクティブに本を読もうよ」というもののようだ。

ところで、それはいいんだけど、オペラ・プロジェクトのその後ってどうなっているか知っている人、いませんか?

正規表現とテキスト・マイニング ―情報発見のツール・キット

佐良木 昌, 新田 義彦, 明石書店 (2003/10).

日報などを蓄積し、それらに対して自然言語処理を行なわず、正規表現とKWICにより、知識発見を行なおうということが主題の本。実際のテキストマイニングでは、自然言語処理もするし、統計処理もするのだが、この本ではそれらはばっさりと切り捨てられている。

ところでKWICのツールって意外に少ないんですね。単に日本語対応しているのが少ないだけなのかな?KWICK Finderなんか機能は多彩ですね。Linux or Javaだとなんかこれといったものが見つかりませんね。見落としてるだけかもしれませんが。

「日報など」と書いたが、著者は日報などを定型フォーマットかつメールなどで提出させる方法を想定・提案している。この点、私が手がけ始めている研究とも通じるものがある。

しかし、統計処理を行なわないことなどから、当然大量のデータへの対処には不安が残る。というか、多分対応できない。なので、身近なところでテキストマイニングを体験してみたいという方には、参考にかもしれないし、テキストマイニングってどんなことをやっているのという方にも、おそらく少しは参考になるだろうという感じです。

むしろ、用いるツールによっての文字範囲の指定の違いなど、正規表現の勉強には役立つかもしれません。ついでに言えば、それにあわせて、付録に乗せてある正規文法がどうのこうという部分のほうが内容が濃かったり、ためになったりするんじゃないかとも思います。

レヴィ=ストロース入門

小田 亮, ちくま新書(筑摩書房), 2000.

どうも以前から、「自分のようなエンジニアが考える『構造』と、構造主義における『構造』とは、なんか違うんじゃないか」と思いつつ、どこが違うのか分からず、微妙に悶々としておりました。本書では構造主義のというか、レヴィ=ストロースの言う『構造』とはどのようなものであるのかが簡潔明瞭に説明してあります。で、それが理解できているかどうかはまた別問題ですが。

しかし、本書を読んでみて、いろいろなところでバルトの言う『テクスト』的な事が有るのかもしれないなぁと思いました。神話の伝播や変換とか、著者が引用しているレヴィ=ストロースの言葉(例えば、pp.235-236)とか、そもそも「ブリコラージュも『テクスト』的だなぁ」などと思います。

その辺は、きっと研究された方が居るはずで、問題はどうやってその文献なり論文なりを見つけるかという方なのですが。万が一、そのあたりの仕事がされていないとしたら、困るなぁ。その辺りもどうにかならないと、本筋としてやりたい研究に辿り着けなくなるというか、その辺りの研究がされてると論拠をどうのこうのするのが非常に楽になると思っているのですが。

これで構造主義の勉強をおしまいにするわけではないので、またチラチラとあちこちを眺めながら,色々と構想を練っていきたいと思います。
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