その他

ワークライフバランスが必要なのは奴隷未満のモノ

ワークライフバランスなんてのがあります。少し次に挙げるものの下の方でも書きましたが。

なぜ日曜日があるのでしょうか? (この書き方はちょっとおかしいですし、日曜日に限った話でもありませんが。) なぜ8時間労働とかワークライフバランスとか言われるのか?

それは奴隷を過度に疲弊、あるいは消耗品にしないためです。

奴隷に対してどうしてそういう扱いをするのかといえば、単純に昔よりえらくコストがかかるからというだけでしょう。奴隷でなくても、モダンタイムスでチャップリンが演じているような労働者でも同じです。

逆方向から見ると、ワークライフバランスとか言っている人は、自分でこう宣言していることになるのではないでしょうか。

私は奴隷です。なので守ってください。

ここから、考えなおす必要があるのではないでしょうか?

あなたが世の中に提供できるのは、それが肉体的であれ知的であれ、労力なのでしょうか? もしそうなら、まず奴隷やロボット未満であることを受け入れましょう。労働者の権利というのは、そこを認めたところから発生します。そこを認めないのであれば、労働者の権利という概念自体、そもそも発生しないでしょう。

これに対して、「人間なのだから」とか「人間らしい」という反論もあるでしょう。ですが、話は単純です。「あなた方は人間ではない。それを自身で認めてるでしょ。」

さらには「退職したら」という類のも、現状を「苦役の期間」と考えてるわけですよね? キリスト教的な人生観です。そういう考え方はどうなんだろうなと思います。

労働者の権利が発生しない社会はあるのでしょうか。まぁあるわけですけど。能力、才能を提供しあう社会です。そんな当たり前の社会とか世の中が、現状は少し遠い。その理由は簡単です。それは…

-wl/sk/hm

技術には思想が必要

SONYの最初のWALKMANでも、AppleのNewtonでも、PalmのPalmでも、AppleのiPodでもiPhoneでもiPadでも、googleのANDROIDでも、みな思想がある。

Mac OS X, iOS, ANDROIDには当然unixの思想も入っている。

技術には思想が必要である。思想がなければ技術を組み上げることはできない。そして、その技術を使うには、その思想を大まかにでも理解する必要がある。技術そのものや理屈を理解するのは極めて困難な場合もある。例えば大学の4年間をやり直す必要があるような場合も珍しくない。だが思想はそこまで困難ではない(いや、それ以上に大変な場合もあるが)。もし、思想を理解しないとすれば、あるいは理解できないとすれば…




思想はなにゆえ思想なのか? 変わらないからか? ある意味ではそうだ。だがその理解は全く間違っている。

言うならば、思想は思想ではない。メタ思想とでもいうべきものこそが思想だ。思想は変わる。変わらなければ生き残れない。だがメタ思想はできるなら変えたくない。それは思想そのものの変化であり、技術の有り様そのものを変えてしまうからだ。しかし、変えたくないだけであり、拒否はしない。そうやって変化を免れ、あるいは変化を受け入れ、その上で伝えらたものが思想として認められる。これは技術に限った話ではない。

だが、周りを見回すと、思想を思想と呼び、メタ思想など検討の範囲外になってしまっている。それでは思想を理解しているなどとは言えない。

スマートフォンなどの新機種の解説でよく目にするのは見た目の問題だろう。もちろん、そこにも思想はあるはずだ。だが、その見た目の奥に、もっと別の思想がある。そこに触れられる紹介記事は極めて少ない。見た目の問題についても、思想に触れられる場合は少ないように思う。あくまで見た目の違いがニュースとして大きな割合を占める。

アーサー・C・クラークの言葉で、「充分に発達した科学技術は、魔法と区別できない」というものがある。

思想を理解できない人達がいるとすれば、そういう人達は既に「魔法に満ち溢れた世界」に住んでいるのではないだろうか?




ところで一段落めで、なぜWALKMANを最初に挙げているのか? 電磁的記録を持ち歩きつつ使うという思想を打ち出したのはこれじゃなかろかと思うからです。携帯電話(あるいは自動車電話)もあったと思いますが、これはまだ通話という機能だけだと思うので。もちろん、そちらを無視するわけにもいきませんが。

How sweet to be an idiot

"How sweet to be an idiot"ですが、この"sweet"って日本語訳するの難しいなぁ。アメリカ公演のビデオの字幕だと、とりあえず「素晴らしい」ってなってた気がする。「バカであることは素晴らしい」てな感じだったと思うけど。「素晴らしい」… うーん、多分そうなんだと思うけど、ニュアンスとしてこう何と言うか、「楽しい」みたいな感じもあるような気がするし、「気楽」という感じもあるような気がするし、"sweet"とは逆の意味(?)になるけど、歌詞の他の部分も見ると「辛い」みたいなニュアンスもあるような気がするし。"an"がついているから、個人としての感覚なんじゃなかろうかと思うので、個人の感覚とに対して「素晴らしい」という、外から見たっぽい感じは少し違う気もするし。"How sweet to be an idiot"だけでも、「訳せ」と言われたら、私はお手上げになりそうな気がする。「とりあえず訳せ」なら、やはり「素晴らしい」になるような気がするけど。

High Landerの"Who wants to live forever"も、High Landerの中身を観ていると、一般論としての「不死を誰が望むだろう?」というのとは少し違う。大昔のエピソードで、殺されたはずなのに蘇ったために部族か氏族から追い出されるとか、結婚したものの自分は不老であるのに妻は老いて死ぬとか、二次大戦中のエピソードで助けた娘がいるのですが、その娘とずっと暮らしていて、その少女が映画内の現在においては初老というか老年期くらいになっていて、ギャザリングのために主人公がその女性と別れるとか、そういうのが描かれている(あれ?宿敵に殺された女性が居たっけ?いや、あのエピソードだとショーン・コネリーが死んでたのか?)。なので、主人公の個人の思いとしての「不死を誰が望むだろう?」という気持ちとリンクしたり。映画の最後では、ある女性と結ばれるのだが、果たしてどうなったのか。(2作めで微妙に触れられてた気がするけど、私個人の気持ちとしては2作めは無いものと考えたい。)

んー、そこのところはハインラインの「メトセラの子ら」(これは長命種のシリーズの一作品)にあった、主人公が瀕死の重傷を負うものの、「死なせるわけにはいかないのよ」みたいな場面も連想したり。このシリーズの長命種は、そういう不思議な人種がもともと居たわけではなく、優生学的な交配によって創りだされた人種というか一族ですけど。

もう一つ印象に残ってる、不老不死ネタの小説があるんだけど、タイトルを思い出せない。

ただ、どれも、一般論としての「不老不死を誰が望むか」というというところで済ませていない。

なので、それらの作品が重なりあって連想されてると、"Who wants to live forever"がますます心に染みる。

関係ないけど、「黙示録3174年」とか「宇宙の孤児」とか、知識が失われて云々というのもいろいろ深いものがある。

まぁ、SFは最近だと「少し不思議」とか言われているけど、生ぬるい感じがしますね。大昔ですけど、「SFとはScience Fictionではない。Speculative Fictionである」という話がありました。日本では(日本に限らないか)根付かなかったように思いますが、思考する物語はそのあたりを主張していたような気がする。

パルプフィクションの時代に、推理小説の枠組みをSFに持ち込んだ人(あるいは人たち)がいて、H.G.ウェルズやジュール・ベルヌ、メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン 現代のプロメテウス」にあったSpeculativeな要素が死に絶えたに等しいと言っていいくらいの状況があった(頑張っていた人は居た)。ただ、推理小説の枠組みを導入したことによってSFは大幅な劣化を余儀なくされ、SF読み自身もかなり劣化した(というか、劣化したSFなら読めるというSF読みが大幅に増えた)。大雑把な話、普通のSFは「実は」というのはあまり使われない(いや、使われるけど、そこが山場というのはかなり少なくなってる。あえて言うなら、「最初に全てを提示する。さてそこで何が起こるか?」というのがSFだと思えばいい。もっとも提示されるもののうち、状況は特殊なものが多い)。そこからSpeculativeな面を復活させるのはかなり大変だったとは聞いている。

ただ、日本だとSFの巨匠は居たし、居るのに、どういうわけかいまいちSpeculativeな方面が盛り上がっていない。SpeculativeとかハードSFというのが日本には根付きにくいのだろうか。

村上春樹氏を誹謗するつもりはないが、中身の無さを面白いと感じる人が多いらしいという状況を鑑みると、科学の知識が必要・どこまでが現時点での仮説であり、どこからが虚構なのかの区別がつく・著者が提示する議論を理解しながら読むということが必要なSFは、日本では受けないんだろうなぁと思う。

話が発散したけど、歌の歌詞でも映画でも小説でもマンガでも、読んだりしながら他の作品との関連付けをしながら読むと、面白さが倍増とかもっと面白くなるという話だということで。

モーメント

いや、モーメントが関係するか分からないけど。

そもそも古典力学的なモーメントって高校で習ってないような気がする。大学でやったっけ?

先日、職場にアームが長いクレーン車が来てました。見た感じでは、とても不安定で怖い。

なので、勘での数値の当てはめと、単純な計算で、展開された足が作る平面から外れるあたりにかかる荷重を考えてみた。平面から外れるという条件は、単に、2足以上の多足移動機械での静歩行だと、その平面から重心がずれるとコケるから。

クレーンなので、本体を押して移動するために必要な力(水平移動をもたらす)と、アームの先にかかる荷重で本体が回る(水平移動ではなく、回転運動。これもどこを軸にして回るとか考えると面倒だけど)のとは必要な力とか重さがまるで違うはずと思った。なので、なおさら不安定な気がしてましたが。

で、きちんと計算するには、モーメントかなにかそんな感じの計算が必要なのかもしれないとは思う。でも、知らないので、足がつくる平面から外れるという条件だけで荷重を適当に推定。

結果、当たり前だけど、案外大丈夫なもんだということがわかった。当たり前のことですけど。普通に不安定だったら、職場に来て何かするとかないだろうし。

でも、まぁ、荷重とアームの角度で結構結果が違ってくると思う。たぶん、そのあたりの複合的な計器が付いているんだろうなと思う。そういう話とは別として、あんなでっかい重機を操作できるのは凄いと思う。

ゲ・ン・パ・ツ

原発が現在稼働数0なのを阪大生が知らなかったとか、小泉元首相の発言とか話題になってますけど。

原発内には使用中の燃料も、使用済みの燃料も置いてありますよね。まだ、どっかに全部移したという話も聞かないし、とりあえず置いとく場所が満杯になった(8割埋まってたんだっけ?)という話も聞きませんが。

そうすると、単純に考えても崩壊熱は出てるのではないかと思います。つまり、発電はしていなくても、冷却のための設備は動いていてくれないと困る。要は、原発は動いていてくれないと困るわけです(まぁ、私が何か勘違いしているかも知れませんけど)。と言うか、そもそも燃料はまだそこにあるわけで。

なので、「発電していないから大丈夫」っぽい考えってどうなんだろうなと思うわけです。

太陽光や燃料電池とかに置き換え可能という人もいますけど、そこまで持っていくのに必要なエネルギーをどうするのかとか。

まぁ、いろいろ「『話にならない』ことを言ってますよね」ということが伝わらない人が結構いますよね。

しょうもないことを思い出した

ちょっと前に、映画を観に出かけた時のことです。テナントの喫茶店かなんかで、のんびりしていると、隣におばちゃん二人組が座りました。

話の中身は聞いていませんけど、おばちゃん1がものすごい早口でまくしたてました。怒っているとかではなく、素で早口みたい。で、たまにおばちゃん2が何か言うのですが、言い終わる前におばちゃん1がかぶせて早口でまたまくしたてる。

まぁ、長い間、仲が良いんだろうなと思いました。さもなければ、近所だとかなんとかで離れられないとか。

それより、そんなに長い時間居たわけじゃありませんけど、それにしてもよくそんなに話すことがあるなぁと感心しました。私なら、100年生き別れてた弟と会っても、「どう?」「まぁまぁ」程度で終わりそうな気がする(仲が悪いわけじゃなく、単にそんなに話すことがないと思う)。

なんてんだろ。おばちゃん(どっちのおばちゃんも)て凄いなと思ったというお話。

ヒポクラテスの誓い

いや、まぁ、ヒポクラテスの誓いは大して関係ないけど。

我々は、自然と自然が創りだしたものを、可能な限り論理を以って明らかにしていくというようなことを、経験として誓いのようなものとして刷り込まれている(というか叩きこまれている。捏造や盗作をしないことも叩きこまれてる。こっちについては例外の人がいるけど)。「可能な限り」というのは、直観が馬鹿にできないから。と言うか、おそらく直観というのは訓練によって手続き的なものをバイパスした結果。例えばスーパーでもコンビニでも買い物をした時に、お釣りがいくらかは多分意識して計算せずとも分かると思う。まぁ、そういう感じ。

でも世の中にはそれとは違う人もいる。法律や組織の規則に従うことを誓っているような感じの人。我々にとって、法律やら規則やらはどうでもいいこと。自然や自然が創りだした、逃げようのない存在ではない。人間の都合で恣意的に定められているに過ぎない。なので、そういうのを最重要事項においている人をみると、つまらない人に見える。

核分裂を禁止するものは何もない。核融合も。DNAの書き換えや、そもそもDNAそのものの合成も。自然はそれらを何も禁止していない。今のところ抜け道がどうにも見つからないものの例は、光速の壁。もっと身近に、地球の核まで行って来るだけだってかなり無理だ。だが、自然が禁止していないのであるとすれば、何か方法があるだろう。

とは言え、ヒポクラテスの誓いが倫理的なものであるように、我々にも倫理はある。

ただし、組織の規則とかを大事と考える人と、我々の誓いや倫理が衝突することが多々ある。我々にとっては、あっちの言っていることは理屈が通らず、またあっちにそもそもの理屈も通じない。そもそも彼らには理屈はない。

まぁ、我々も含めて人間は馬鹿になっていく運命らしいので、彼らのほうが進化しているのかもしれない。

amazon.comで注文ミスった

予約注文してたのを、そのあとでもう一個注文してしまっていた。発送メールで気が付いた。

でも、キャンセルできるみたい。既に発送済みなので、届いてから返送になるけど。キャンセルの手続きしたら、「これを包装に貼って返送してちょ」というアドレスとか、バーコードみたなのが表示された。一応それらのコピーを取ってある。発送後のキャンセルもOKというのは助かる。

1代目paperwhiteの、その前のkindleだったと思うけど、電子ペーパーが一部ちょっとおかしくて、amazon.comのページをいじってたらカスタマーセンターのところに行って、そこにこちらの電話番号を入れたら、向こうから電話がかかって来たし。国際電話なのに(多分インドあたりからだと思う)。まぁ、交換になった。その際も、「今持ってるのの返送の包装にこれを貼って返送してね」というのが新しく送られてきたものの中に入ってたな。

いろいろあるだろうけど、なんだかんだ結局amazonはサービスが良いと思う。

国家試験のための勉強で医師になるそうな。屑量産体制が整っているのか?

BLOGOSでですが医学教育に見る教育の荒廃 - 井上 晃宏という記事があります。まぁ、ちょっとひどい記事かなと思ったので少し。

医学部教員の大半は、医師国家試験の問題を解けない。もちろん、自分の専門分野は知っている。しかし、それ以外は忘れてしまっている。

まぁ、そんなのは当たり前かなと思います。講義ごとに教員が変わる理由だってそのあたりも関係しているだろうし。

マニアックな知識を教えられても、その分野の専門家になる人以外は、一切役に立たない。教科書に書かれている程度の初歩的な知識なら、教わる必要はなく、本を読めばそれで足りる。

教養課程ならともかく、マニアックな知識を教えるのが専門課程だと思いますが。その辺の本に書かれている内容で医師としては十分という考えなのでしょうか?

医学教育では、憶えるべき知識は、国家試験範囲、CBT範囲という形で、明確に規定されているため、学生は自主的に勉強する。


面識のある産業医の先生も言っていましたが、「国家試験があるから勉強する」のだそうです。その先の展望や希望があって勉強するわけじゃないらしいです。高校でも大学でもいいですが、「期末テストがあるから一夜漬けする」のと根本は同じように思えます。そんなわけで、「国家試験があるから勉強する」という人は、はっきり言って屑ですね。国家試験でこういう屑を落とすうまい方法というのはないのでしょうか。

学生は、あらかじめ本を読んで憶えていた構造を確かめているだけなのだ。

それで構わないと思いますけどね。実習の類はそういうものだと思いますが。

「全科目が休講でも困らないだろう。むしろ、休講の方が、勉強する時間ができるので、学力が伸びる」

テスト勉強をしていればいいのなら、そうでしょうね。ただ、教員と議論する機会を自分から捨ててます。もったいない。テスト勉強よりも、教員との議論の方が学力なるものは身につくと思いますが。

まぁ、大学を活用できていなかった人が貧相な経験から書いた記事かなぁと思います。

TBS 人間とは何か?

あそこの大学の現学長が出てた。

どの系からの人なんだろ?外部から来た人かもしれないけど。

 相変わらず、結構謎な大学だ。
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