えーと、家畜化された種と、その野生種では、家畜化された種の方が脳容積が小さいという話を学生の頃に聞いたことがあります。また、人間の脳容積も数万年前(もっと前?)の化石と比べると小さくなっているという話も学生の頃に聞きました。で、人間は自らを家畜化しているという話も。

ちなみに、去年の秋頃のNHKスペシャルだったと思いますが、いろいろな時代の人類(?)の頭骨の化石からその内部の形状を形取りした結果、120万年前の化石ではそれまでには見られなかったブローカー野(だったと思いますが違うかもしれません)の発達が見られたなんて話もありました。

とは言え、化石になって残る確率はかなり低いわけで、脳容積が云々というのも統計的に有意なのかどうかは知りませんけど。

もちろん、脳容積がそのまま知的能力に直結するわけではないということです。例えば鯨(鯨の全部の種かどうかは知りませんけど)や象は人間より大きな脳を持っているらしいですが、それが少なくとも人間のような知的能力としては現れていないわけです。

で、この人間自身による自らの家畜化がなぜ起こっているのかというと、その一因はルールを作ってそれに従っているからだと、上の話と同様に学生の頃に聞きました。

もちろん、社会生活ないし集団生活を送っていくうえで、ルールを作り、それに従うことは避けられないでしょう。あるいは、記録を取り、必要な時には過去の記録を参照して行動するなどということも、個々のルールは定まっておらずともメタルール的ではありますがやはりルールに従っていると言えるでしょう。だとすると、文字の発明がシュメールかその前あたりで紀元前3000〜4000年あたり、今から5000〜6000年前くらいだったと思いますが、その頃から人間の家畜化が始まったのか、速度が増したのかという可能性も考えられます。もちろん、何の証拠もありませんが。

私自身、今の職場で環境マネジメントシステムを立ち上げる仕事をしたり、情報セキュリティマネジメントシステムをいろいろとやっていたりします(情報セキュリティマネジメントシステムの方は年明けから忙しくなるのかな? 認証を得るわけではありませんが)。これらのマネジメントシステムには、「確認」と「見直し」が要件に入ってはいますが、実際のマニュアルとか手順書などについては「そう書いてあるからそれに従う」という人が居るであろう事も否定できません。もちろん、「何が決まっていようと自分の好きなようにする」という人も居ますが。

そういうルールを作ること自体は否定しませんし、社会的に外部から見て組織に対する信頼を得るためにルールと体制を整えることはどうしても必要でしょう。何に対してであれ、その場その場で対応していたのでは信頼を得ることは難しいでしょうから。「臨機応変」という言葉もありますけど、それは「確認」・「見直し」や、それらのための対応ということで。

で、何を言いたいかというと、いろいろなことを記録やマニュアル化することによって、特に近年でもないですけどプロセス・マネジメント(で良いのかな?)を追求する方向というのは、人間が更に自らの家畜化を進めているような方向性にも考えられるような気がしないでもないわけです。

進化には後戻りはないと言われるそうですが、さて、どうなることやら。もしかしたら、たんぱく質から抜け出ざるを得ない方向に邁進中なのかもしれません。

ただ、危惧するのは、マニュアル化された社会の中で育って来た人たちのことです。私なんかは、「気に入らないルールは変えればいい」という考えを基本的には持っています。学生時代にそれに基づいて行動して、偶然も重なって(というより現実にはそっちの影響だけでしょうが)、あるものを変えさせた事があります。しかし、マニュアル化された社会の中で育ってきた人は、「ルールは従うもの」という意識の方が強いような気がします。大丈夫なんでしょうか?