吉川 徹, ちくま新書(772), 2009.
著者は、「日本人の多くが、学歴の上下を表立って口にすることを、長い間『タブー』だと信じ込まされてきた」という。そして、学歴を切り口に、格差社会と呼ばれる現代社会を分析している。
著者は、学歴を二層に分けている。一つは大卒層であり、これには博士卒、修士卒、四大卒、短大卒、高専卒が含まれる。もう一つは高卒層であり、こちらには専門卒、高卒と中卒が含まれる。
現在、大学全入時代と言われるが、大学進学率で言えばおよそ50%である。これは高卒層がそもそも大学への進学を希望していないためである。親子の世代間での大卒層と高卒層を比較すると、昔は親=高卒層-子=大卒層という割合が高かったが、現在では、親=大卒層-子=大卒層、あるいは親=高卒層-子=高卒層という、学歴の分断が起きているという。ただし、この分断は絶対的なものではなく、親=大卒層-子=高卒層のような入れ替えも存在している。つまり、先にも書いたが、大学に行けないのではなく、大学に行かないことを選択している高卒層が決して少なくないという。この、大学へ進学しないことを自ら選択する人々が50%もいるということには驚きを感じた。
しかし、そうした高卒層の就労環境はどうかといえば、はっきり言ってあまりよいものではない。給与、待遇、就職・転職時に使えるカードなど、大卒層と高卒層では大きな差があるという。だが、著者は、「だから大卒層になれ」とは言わない。
学歴の分断は、別の言い方をすれば学歴の継承であり、ある意味においてライフスタイルの継承とも言える。著者は、子供が全員高卒層である人へのインタビューから、「子供が近くに住んでいてくれてうれしい」というような発言を得ている。親と子で学歴層が異なれば、ライフスタイルもおそらくは異なるであろうし、ライフスタイルが異なれば、文化などの継承にも問題が出てくるだろう。
著者が最後に提言しているのは、異なる学歴層の人々による共生である。会社などの採用時には、大卒層と高卒層の採用比率を法で定めるとか、あるいは仕事その物の役割分担である。
それが格差社会の解消になるのかどうかはわからないが、面白く読ませてもらった。
著者は、「日本人の多くが、学歴の上下を表立って口にすることを、長い間『タブー』だと信じ込まされてきた」という。そして、学歴を切り口に、格差社会と呼ばれる現代社会を分析している。
著者は、学歴を二層に分けている。一つは大卒層であり、これには博士卒、修士卒、四大卒、短大卒、高専卒が含まれる。もう一つは高卒層であり、こちらには専門卒、高卒と中卒が含まれる。
現在、大学全入時代と言われるが、大学進学率で言えばおよそ50%である。これは高卒層がそもそも大学への進学を希望していないためである。親子の世代間での大卒層と高卒層を比較すると、昔は親=高卒層-子=大卒層という割合が高かったが、現在では、親=大卒層-子=大卒層、あるいは親=高卒層-子=高卒層という、学歴の分断が起きているという。ただし、この分断は絶対的なものではなく、親=大卒層-子=高卒層のような入れ替えも存在している。つまり、先にも書いたが、大学に行けないのではなく、大学に行かないことを選択している高卒層が決して少なくないという。この、大学へ進学しないことを自ら選択する人々が50%もいるということには驚きを感じた。
しかし、そうした高卒層の就労環境はどうかといえば、はっきり言ってあまりよいものではない。給与、待遇、就職・転職時に使えるカードなど、大卒層と高卒層では大きな差があるという。だが、著者は、「だから大卒層になれ」とは言わない。
学歴の分断は、別の言い方をすれば学歴の継承であり、ある意味においてライフスタイルの継承とも言える。著者は、子供が全員高卒層である人へのインタビューから、「子供が近くに住んでいてくれてうれしい」というような発言を得ている。親と子で学歴層が異なれば、ライフスタイルもおそらくは異なるであろうし、ライフスタイルが異なれば、文化などの継承にも問題が出てくるだろう。
著者が最後に提言しているのは、異なる学歴層の人々による共生である。会社などの採用時には、大卒層と高卒層の採用比率を法で定めるとか、あるいは仕事その物の役割分担である。
それが格差社会の解消になるのかどうかはわからないが、面白く読ませてもらった。